ぽてかなの私見

「記憶は薄れるから、記録しておくんだよ」「記憶なんて生きるジャマだぜ」

【22/7】7話 雑感 ── 戸田ジュンを絡め取るアイドルの刹那性と永遠性

「推しは推せる時に推せ」

 7話を見た時、この決まり文句を真っ先に思い出した。

 刹那性はアイドルの宿命である。推す側も推される側も須らく不変ではない。好きでいる事。好かれる事。何方も継続するには多大なリソースを要する。いつか終わりは訪れる。その”終わり”を悔いの無い物にするために、今の内に全力で応援する。そのムーブメントは結果的にコンテンツの延命に繋がる事もあるかもしれない。要するに「推せる時に推す」という在り方は、刹那性を克服するための1種のライフハックみたいな物なのだろう。しかし、この考え方は楽観的な前提の元に成り立っている。それは「”終わり”を悔いの無い物にする」という部分だ。そんな事が本当に可能だろうか。その疑問を「22/7」7話は真正面から問い掛けて来たように思う。

 つまり何が言いたいかと言うと、松永悠は戸田ジュンが生まれて初めて出会った”アイドル”であり、悠の死はジュンに”終わり”を突き付ける物であった——即ち、アイドルの刹那性を象徴しているのではないか、という事だ。

 もちろん悠は本物のアイドルではない。しかし、俯きがちだったジュンを光の下へ連れ出したのは、他の誰でもない松永悠だ。影から光へ。青空を見上げて。そうした描写は劇中の随所に散見される。

f:id:potekana:20200308235733p:plainf:id:potekana:20200308215127p:plain

f:id:potekana:20200322025340p:plainf:id:potekana:20200315204828p:plain

 特に画像4枚目のカットでは、ジュンの目が背景の金網より高い位置に来るようレイアウトを組む事で、悠に手を引かれた彼女の心が少し上向きになっている様子が分かりやすく演出されている。他にも22/7 7話では「ジュンの目線が何処を向いているか」が、背景との位置関係も絡めて丁寧に描写されている。

f:id:potekana:20200308220414p:plainf:id:potekana:20200308220452p:plain

f:id:potekana:20200308220527p:plainf:id:potekana:20200322025643p:plain

 最も分かりやすいのは、病院のベッドで病院食を口にするシーンだ。ヘッドボードの穴に注目して欲しい。悠と出会う前のシーンでは両眼の位置が下の線に被っている。次、悠と邂逅し、画面右手のフレーム外にいる彼女と言葉を交わすシーンでは、片眼だけ下の線から外れる(ここは顔を傾ける芝居の中で偶々そうなっただけかもしれないけど)。そして最後、味気ない筈の病院食を楽しそうに頬張るジュンの両眼は、遂に上の線に重なる。周囲の人々の心を上向きにする松永悠の在り方は、ジュンの心に深く印象された理想のアイドル像そのものと言える。

 しかし、繰り返しになるが、刹那性はアイドルの宿命である。

f:id:potekana:20200308220633p:plainf:id:potekana:20200308220640p:plain

f:id:potekana:20200308220648p:plainf:id:potekana:20200322030411p:plain

 楽しい時間に突然の”終わり”を告げる悠の死。夕立、沈む太陽、茜色の空。それら全てが「永遠に続く青空など存在しない」という当たり前の真実を少女に突き付ける。雨の影が無数の矢の如くジュンの影に刺さるカットは、彼女を苛む罪の意識の表れだろうか。そして黄昏時。その語源が示す通り、沈み往く太陽は1つの問いを投げ掛ける。——そこに居るのは誰か。少女が選び取った答えは、松永悠の在り方を受け継ぐ事だった。それは刹那性の否定である。「推せる時に推す」が刹那性の受容なら、その真逆の道を少女は選択したのだ。松永悠というアイドルを永遠にする事。それは「戸田ジュン」というアイドルが歩み出した茨の道の正体に他ならない。

 そこで1つ、疑問に思う事がある。なぜ松永悠は戸田ジュンのアイドルたり得たのだろうか。それは結論から言えば、悠もまた”アイドル”に救われたからではないか、と私は考える。       

 病院の塔屋の上で2人が会話するシーンを思い出して欲しい。

「ずっと、このままだったら、どうしよう。」

 まるで歩き疲れた迷子みたいな顔で少女はポツリと本音を零した。その憂苦に満ちた感情を聞き届けた悠は、一瞬だけ淋しそうな表情を見せる。 

f:id:potekana:20200308220551p:plain

 それが意味する所は本人にしか分からない。しかし少なくとも私には、その感情はジュンにだけ向けられた物ではないと感じた。憐憫や同情ではない。それはきっと自分自身に向けられた情念だ。そこに解釈の刃を差し込むとすれば、私は2つの可能性が考えられると思う。

 1つ目は、かつての自分と目の前のジュンを重ねている、という解釈だ。彼女の内心を言葉にするのであれば「(私も、こんな気持ちだったな……。)」だろうか。こちらの方が一般的な解釈に近いかもしれない。2つ目は、ジュンの悩みを羨ましく思っている、という解釈だ。つまり、悠は自分の命がそう永くないことを知っていて、未来がある事を前提としたジュンの言葉を羨ましく思った。自分でも深読みが過ぎるとは思うが、あの表情を見た時、私には「(ずっと、か……。)」という悠のモノローグが聴こえた気がするのだ。そう考えると「折角、遊園地に来ているのに、悲しい顔なんて勿体ない、だよ。」という台詞も、何処か時間制限を念頭に置いた言い回しだと思えて来ないだろうか。何方にせよ、このシーンから私は、かつて悠もまたジュンと同じように影の中で俯いていた時期が在ったのではないか、と推測した訳である。

 そんな悠が「人生は遊園地だ」という考え方に至ったのは何故か。その過程にはどんな出会いがあったのか。それを考えるためには悠の過去を知る必要がある。2人でカラオケに行くシーンを見返して欲しい。悠は「恋するフォーチュンクッキー」をモニターを見ずに歌っていた。動画サイトでMVを確認してみた所、ダンスも正しい振付で踊れているようだった。有名な曲とはいえ、好きでもないアイドルの歌詞と振付を両方とも覚えて、友達に披露してみようとは思わないだろう。悠にとって、この曲とそれを歌うアイドルは、それだけ大事な存在だったのだろうと思う。そして、このシーンと塔屋で彼女が見せた憂い顔とを(牽強付会を承知で都合よく)繋げて考えるなら、病に対する憂苦から彼女を救い出した存在こそが他でもない”アイドル”だった……という憶測も可能なのではないだろうか。勿論、他にも解釈の余地はあると思う。それでも私が上記の解釈を選んだ理由は、そこにアイドルの永遠性を感じたからだ。

 かつて”アイドル”に救われたかもしれない松永悠が、恩返しのように誰かを光の下へ連れ出す。その「誰か」は今、”アイドル”戸田ジュンとして皆に笑顔を届けている。”アイドル”という救済が人から人へと受け継がれていく。生と死の境界すら超えて。松永悠の死はアイドルの刹那性を象徴していると私は言った。刹那性はアイドルの宿命だとも言った。しかし、その刹那性では断ち切れない何かがある。悠と共に死ななかった――ジュンが死なせなかったアイドルという名の救済。コンテクストと言っても良い。そこにはきっと一つの祈りが込められている筈だ。……それでも永遠であって欲しい、と。

 それを踏まえると、悠がジュンを元気付けるための曲として「恋するフォーチュンクッキー」を選んだ理由も、(もちろん「秋元康コンテンツだから」以外で)何となく想像がつくのではないだろうか。

「未来はそんな悪くないよ」

「人生捨てたもんじゃないよね」

「あっと驚く奇跡が起きる」

f:id:potekana:20200308215917p:plainf:id:potekana:20200308235941p:plain

f:id:potekana:20200308215930p:plainf:id:potekana:20200308215936p:plain

 そのマイクは、さながらバトンのように。受け継がれた物は、松永悠のアイドルめいた在り方だけではない。「折角、遊園地に来ているのに、悲しい顔なんて勿体ない、だよ。」そう語った、雲一つ無い青空のような笑顔。未来に怯える事なく人生を楽しむこと。それは即ち、刹那性を否定し、永遠を夢見るムーブメントそのものだ。

 刹那性はアイドルの宿命である。それでも”アイドル”戸田ジュンは元気に笑い続けるのだろう。喩えそれが誰かの真似事でしかなくて、その笑顔は誰かが自分に向けてくれたモノの残滓に過ぎなかったとしても。吸い込まれるような青空に足を踏み入れ、彼方へ消えて行った飛行機雲を何時までも、何時までも追い続けるのだろう。時には、気弱な本音が顔を出す事も、あるかもしれない。それでも最後には満面の笑顔で言うに違いない。

 「本当に楽しかった!」と。