ぽてかなの私見

「記憶は薄れるから、記録しておくんだよ」「記憶なんて生きるジャマだぜ」

【ゾンビランドサガ】星川リリィは何故まさおだったんだろうという話。

ゾンビランドサガのネタバレあり】

 

「星川リリィは豪正雄である必要があったのか」


 ゾンビランドサガ8話が放映されたとき、このような疑問に頭を悩ませた視聴者は少なくないだろう。私もその1人だ。話にインパクトを与える役割があったのは言うに及ばないが、果たして本当にそれだけなのだろうか。そんな疑念を抱きつつも、如何せん私はトランスジェンダーや男の娘という文化に明るくないため、なかなか自分の考えを形にすることができなかった。そして最終話の視聴を終えた今、性別云云に留まらずリリィの境遇や心情から改めて8話を読み直すことで、私は自分なりの答えを得た。本記事ではそれを話していきたい。まずは8話に対する私の解釈を説明する。


 星川リリィは2つの問題を抱えていた。


 1つ目の問題。それは「パピィに本当の自分を見て貰えなかった」ということだ。パピィは「テレビの中にいる自慢の息子」に目を向けるあまり「パピィの隣りにいる”本当のリリィ”」を蔑ろにしてしまった。大好きなパピィが自分を愛してくれない。大好きなパピィが自分の悩みと向き合ってくれない。この問題を解決するための必要条件は「生きる」ことだ。パピィが自分と向き合ってくれるまで、リリィは生き続けなければならなかった。


 2つ目の問題。それは「成長してパピィみたいになるのはイヤだ」ということだ。これに関しては、パピィが自分を見てくれれば解決、とはいかない。むしろパピィの存在自体がリリィの苦痛に繫がったとも言える。勿論これもパピィと共に乗り越えていくべき問題だったのかもしれない。しかし、それより手っ取り早くて身も蓋もない解決方法がある。「死ぬ」ことだ。そう、死ぬことで、星川リリィは永遠の12歳になれる。もう脛毛も髭も生えることはない。

 

 リリィはゾンビになることで後者の問題を解決してしまった。だから前者は永遠に解決できない。生と死の断絶がそれを許さない。ただ死んで無に還ったのではなくゾンビとして生まれ変わった以上、リリィはその事実を受け止めなくてはならない。ドライで大人びた一面のあるリリィの事だから、覚悟は決めていたのだろう。それは「パピィのことを忘れようとしていたの。」「ゾンビは成長しないんだもん。もう怖いものなしだよ。」「さくらちゃんみたいに何も覚えてない方がよかったのかな。」といった台詞からも伺える。死んだことで2つ目の問題を解決できた。その事実だけに目を向けて満足しておく。リリィらしいスマートな立ち回りだ。

 

 フランシュシュが嬉野を観光したとき、リリィは独り、豊玉姫神社で祈りを捧げていた。前後の流れを考えると祈りの内容は「今の綺麗な肌のままでいられますように」であると考えるのが妥当だろう。リリィの死因にも繋がる。しかし一方で豊玉姫様は子孫繁栄の神でもあると聞く。もしかするとリリィは「パピィが別の人と再婚して新しく子宝を授かって幸せに暮らしていけますように」と祈っていたのかもしれない。そうしてパピィが自分のことを忘れてくれればそれでいい。そして願わくば、自分もパピィを忘れられたら。そんなことを願っていたのかもしれない。

 

 それでもパピィは目の前に現れてしまった。パピィが自分をどれだけ想っていたかを知ってしまった。「自分もパピィの気持ちと向き合って来なかった」という事実を突きつけられた。もしパピィと共に生きて、自分から歩み寄っていれば、1つ目の問題なんて簡単に解決したかもしれない。そんなifから目を逸らせなくなった。

 

 この苦しみから解放されるためには、今こそ1つ目の問題を解決するしかない。パピィに今度こそ”本当のリリィ”を見てもらいたい。そして”本当のパピィ”と向き合えるようになったよと伝えたい。でも全ては後の祭りだ。「仕方ないよ。リリィ、ゾンビだし。」と項垂れるリリィに、それでも水野愛と紺野純子は答えを示した。*1

 

 それを可能にする存在が「アイドル」なんだよ、と。

 

 リリィはアイドルとして”本当のリリィ”をパピィの前で表現する。パピィは眼の前の偶像にリリィを重ねることで、リリィの想いを知ることができる。無論それは単なる虚像だ。本当は実像だけれど、パピィから見れば6号はリリィではないのだから、虚像でしかない。だから2人とも救われることはない。リリィが歌ったように”この胸に空いた隙間は埋まらない”。それでも痛みを癒やすことはできる。”愛は変わらないよ いつまでも”と伝えることはできる。こうして星川リリィはアイドルとして見事に自分と家族を苦痛から解放せしめたのだ。

 

 さて、8話に対する私の解釈を一通り話したところで、本題に戻ろう。

 

 星川リリィは豪正雄である必要はあったのか。

 

 リリィが抱える問題を一般化すると、1つ目は「周囲の人間が自分の気持ちと向き合ってくれない」という寂寥であり、2つ目は「時間の経過に伴い自分の価値が下がるかもしれない」という恐怖である。本来、これらは別々の問題であり、必ずしも干渉し合う関係にあるとは言えない。また、当然ながら、何方も性別云云に関係なく発生しうる悩みである。それをゾンビランドサガでは、性別関連の設定を主軸にして、2つの問題が絡み合う構図にすることで「リリィが生と死のコンフリクトを抱える」という状況を造り上げたのだと私は考える。

 

 もっと言うと、性別関連の設定が無ければ、家族愛だけをテーマにしていたならば、星川リリィはゾンビになった時点で苦悩していた筈だ。それこそ水野愛や紺野純子と同じように。だが彼女らと決定的に違う点は、リリィにとって「死」は必ずしもデメリットだけではなかったという点である。リリィはゾンビになることで、いつかパピィみたいな容姿になる、というリスクから逃れられた。そうしたメリットがあったからこそ、リリィはソレだけに目を向けることで、家族との断絶という哀しみから目を逸らすことが出来たのだ。それは言ってしまえばパピィへの裏切りである。故に実際にパピィと再開してしまったとき、その裏切りは大いなる後悔を伴って、リリィ自身へと跳ね返ってきた。そんな逃げ場のない心の軋轢を癒やすにはどうすればいいか。その問に対してフランシュシュは「アイドル」というアンサーを打ち出した。こうした一連の流れを以って、ゾンビランドサガ8話は「偶像」を肯定的に描いて魅せたのだ。

 

 だから星川リリィが豪正男であることには、少なくとも「意味」はあったのだ。一方で、本当に性別関連の設定を盛り込む「必要」があったのか、と問われると明朗にYesと答えることはできない。そして、その曖昧な立ち位置こそが、星川リリィというキャラクターを描く上で一役買っているのではないか、と私は結論付けた。少しややこしい話になるが、最後にそれを説明して本記事を終わりたい。

 

 私はこれまで性別云云の設定が物語の根幹にあるという話をしてきた。だが、本当の根幹は”生と死のコンフリクト”であって、性別の件は言ってしまえば、その状況を造り出すための舞台装置にすぎない。ゾンビランドサガ8話という物語の中心はあくまで親子愛であり、性別云云は枝葉末節でしかない。もちろん無くてはならない存在だが、代替可能なガジェットでもあるという事だ。そして、その不思議な立ち位置こそが作劇のミソなのだと私は考えている。

 

 この絶妙な立ち位置だからこそ、大方の視聴者もフランシュシュのメンバーも最初は「リリィがまさおである」という事実に驚きはすれど、話が進むにつれて、いつの間にか意識しなくなっていったのだろう。12話を見終わった段階で一体どれだけの視聴者がリリィ=まさお問題を気にかけていただろうか。要するに、そういう事である。性別なんてどうでもいい。”本当のリリィ”を見守ればいい。そうした方向へ視聴者の意識を誘導した作劇により、メタ視点においても星川リリィの願いは叶えられたのである。それでいて性別云云の設定が無ければ、リリィの苦悩は水野愛や紺野純子と同質のものになってしまうので”生と死のコンフリクト゛は発生することなく、物語は根本から崩壊する。この絶妙なバランス感覚こそがゾンビランドサガ8話の魅力なのだろう。少なくとも私はそう受け取った。

 

 以上が「星川リリィは豪正雄である必要はあったのか」に対する私の見解である。

 

あとがき

 次の記事では「なぜ源さくらが星川リリィに寄り添ったのか」という話をします。本当は本記事のオマケとして書き始めたのですが、思ったより長くなってしまったので別々の記事にしました。そう遠くないうちに投稿する予定なので、よかったら読んでください。

 

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 よかったら此方も見てね。

 

 

 

私信

> Cunliffeさん
> 12話を見た今の感想が読みたい。

 コメントありがとうございます。まだ12話の源さくらを咀嚼できた気がしないんですよね。考えが纏まったら書くと思います。

*1:「想いに応えろ」