ぽてかなの私見

「記憶は薄れるから、記録しておくんだよ」「記憶なんて生きるジャマだぜ」

【ゾンビランドサガ】源さくらは凡人だけど凡人じゃないという話。

ゾンビランドサガ11話のネタバレあり】


 ゾンビランドサガ11話の感想を見ていると、多くの方が源さくらを「凡人の代表」「現代病理の風刺」と評しているのを目にする。その度にこう、的外れではないが正鵠を射るとも言えないような、何処かモヤっとした気分になる。私の中では、寧ろ源さくらの生き様はフランシュシュの中で最も常軌を逸していて、とても我々のような凡人を代表した存在とは思えない。だけど一方で彼女が凡人と言われる理由にも心当たりがあるのだ。本記事ではそんな話をつらつらと綴っていく。

 

 源さくらはもとより「努力の天才」だった。ガタリンピックで明示されたように彼女は基本的に鈍臭い。6話で純子の帽子を取り損ねた件に鑑みても、身体能力は平均以下と言わざるを得ない。そんな彼女が努力だけで劇の主役を勝ち取り、努力だけでリレー選抜を勝ち抜き、学年1位のタイムまで叩き出した。これだけで既に常人離れした実績にも見える。それでも畢竟、努力の「程度」が並外れている、という話でしかない。積み重ねた努力の先に自己実現という報酬がある以上、彼女の「生き様」は至極真っ当と言える。少なくともこの時期までは。


 彼女の”生き様”は、2年目のリレー選抜から徐々に可怪しくなってくる。それまでの人生で、人より努力しながらも不運に苛まれ、自己実現に至らなかった源さくら。そんな彼女の内には、いつしか「リベンジ」という明確な目的が生まれた。何に対するリベンジか。言うまでもなく「宿命」だ。この頃から彼女の敵は、周囲の人間から、自分を戒める呪いへと変化していった。大事なときに限って自分を見放した神様に一矢報いる。ただそれだけのために、彼女は周囲の誰よりも努力を積み重ねた。報酬はない。自己実現など眼中にない。ただ目的を果たすために苦行に身を委ねる。その在り方が私には常軌を逸しているとしか思えなかった。


 それでも”リベンジ”を果たせなかったさくらは遂に決定的な狂気へと至る。中学1年の夏、齢13にして、彼女は”不運な人生を払拭するため”だけに中学時代という青春を丸ごと投げ捨てることを決意し、実行したのだ。


 一応、志望校に何かしら思い入れが在ったのかもしれない、という可能性も考えたが、恐らくその線はないだろう。志望校のパンフレットを読む源さくらの表情は何処か浮かない顔で、期待や憧憬といった感情は見受けられないからだ。少なくとも水野愛にときめいた瞬間のあの表情には遠く及ばない。むしろ「どうせ今回も報われないんだろうな」という諦念を堪えた、シニカルな笑みを浮かべているように見える。もしそうだとしたら、それはそれで恐ろしい話だ。報酬の有無どころの話ではない。目的を達成できない未来を予想しながら、それでも神の裁きに抗うためだけに源さくらの全存在を擲った、ということになるのだから。


 小学5年から中学3年にかけて、さくらは同級生から距離を取られるようになった。当然の結果だろう。なにせ本人が周囲の人間に目を向けていない。学年1位やA判定という実績が「神と闘うための下準備」でしかないのだから。この時点でさくらは、人と人の競争社会から逸脱し、たった独りで神話を繰り広げていた。そら近寄りがたいし理解もできまい。現に小学時代からさくらの近くにいた腐れ縁の松尾ちゃんですら、高校時代――つまりさくらが神との闘いを放棄してから、ようやく話しかけられるようになった。いや、勿論、それ以前にも話しかける場面は在ったのかもしれない。だが、A判定をとって喜ぶ中学時代のさくらに話しかけないシーンと、高校時代の無気力なさくらに馴れ馴れしく話しかけるシーンとで、明らかに2人の距離感が違うのは事実だ。

 

 そうしてようやく話しかけてきた松尾さんの言葉が「スポーツとか身体を動かすこと得意だったやん」なのである。もう何一つ理解していない。”持ってない”以前の問題だ。"得意"ではなく、得意と言われるまで必死に努力を積み重ねた、という絡繰りが在ることすら理解していないのだから。


 そして彼女の在り方を理解できないのは、フランシュシュのメンバーも変わらない。(徐福が絡むゆうぎりと詳細不明のたえに関しては断言できないが)なぜなら彼女らは皆、人との争いのなかで自己実現を達成し、伝説を創り上げたにすぎないからだ。それでも常人離れした実績であることは言うに及ばないが、源さくらの生き様はまた別次元だ。上や下ではなく、ねじれの位置にある。だから当然の帰結として彼女達が源さくらの神話を理解できる道理が無い。もちろん彼女達だって、理不尽な不運にぶつかり、それを自力で乗り越えてきた経験の1つや2つは在るだろう。だが、さくらの場合は、不運そのものが敵なのだ。だから喩えさくらが伝説を遺す可能性があったとしても彼女達とは順序が違う。神と闘う過程で結果的に伝説的な実績を上げる可能性はあっても、彼女達のように自己実現を伝説へと昇華させることはなかっただろう。


 源さくらはどうしようもなく孤独だ。だから巽幸太郎も彼女を無理に理解しようとはしなかった。一度、突き放したのも、俺はお前を理解するつもりなんてない、という意思表示だろう。その上で彼は「俺が持っとるんじゃい!」「だから!俺は!お前を絶対に見捨ててやらんッッ!」と叫ぶ。あの瞬間、私は初めて巽幸太郎の素顔を見たように感じた。普段の喧しい巽Pでもなければ、シリアスムードの静かで重々しい巽Pでもない。何故ならどちらも彼が意識的に創った「キャラクター」だから。でも、さくらへの叫びはきっと彼の本音だ。飾りようのない直球を満身の力でド真ん中に放り込んだのだ。源さくらの神話を理解することはできない。純子のときみたいに土足で上がり込むこともできない。だが、それがどうした。理解なんかしなくとも、その手を掴むことはできる。幾ら神がお前を見捨てようとも、俺はお前を見捨ててやらん!何故なら俺がデカくてスゴいもんを持っているからだ!!


 そんなストーカー紛いの自分勝手な言葉に、それでも彼女は何も言い返すことができなかった。分かっていたからだろう。源さくらの原点は決して宿命や神話などではないという事を。それらは後付の妄執でしかない。だから彼女はきっと自分の闘いへの理解なんて求めていない。


 ならば彼女は何を求めていたのか。それはきっと原点への回帰だ。もとより彼女は「努力の天才」だった。その先には自己実現という報酬があった。巽幸太郎の言葉は、その原点に源さくらを引き戻したのだろう。そして生前、巽幸太郎と同じ役回りを果たしたのが、他でもない水野愛だったのだ。


 高校時代に遡る。青春の全てを犠牲にした神への挑戦は失敗に終わった。さくらは全てを喪って生ける屍と化したが、同時に妄執からも解放された。有り体に言えば、肩の力が抜けた。このタイミングだからこそ、水野愛との出会いが響いたのだろうと思う。

 

 努力や失敗を踏み越えて自己実現を成し遂げた水野愛に、さくらは自分が忘れていた輝きを見出したのだろう。かつて彼女が目指していたもの。誰よりも努力を積み重ねた理由。「ああ。私はこうなりたかったんだ。」と、事ここに至ってようやく、自分がとんでもない回り道をしていたことに気付いた。「また1から再出発しよう。」そう思えたから彼女は、アイアンフリルのファンになって終わりではなく、アイドルになる自分を夢見たのだ。神と闘うためではなく、自己実現を成し遂げるために。極めて真っ当な形で新たな一歩を踏み出そうとした。


 だが神は容赦なく彼女を見捨てた。もしかすると水野愛との邂逅も悪趣味な図らいでしかなかったのかもしれない。あれはタイミングも含めて正に源さくらの人生で最初で最後の幸運だ。当然、さくらは飢えた獣のように食い付く。そうして高々と振り上げたグラスを、神は勢いよく地面に投げ捨てた。


 そうして彼女は、今度こそ理解したのだろう。源さくらの”努力”とは、グラスの高さを稼ぐだけの自殺行為に他ならない。生き様など関係ない。神話の登場人物として生きようが、真っ当に自己実現を目指して生きようが、自分の行き着く先はどうあっても砕け散ったグラスの破片でしかない。その諦念は「幾らあの娘が本物の水野愛だとしても、私がアイドルになんてなれるわけなか。」という台詞に詰まっている。


 そして源さくらが巷で「凡人」と言われる所以も恐らくここにある。どんな経緯があろうと、何も知らない人からすれば、敗者は敗者でしかない。何も成し得なかった。その一点で落伍者の烙印を押されてしまう。*1そして何よりさくらは自分自身に、そのような評価を下しているのだ。だから彼女は巽幸太郎の言葉を肯定しなかったのだろう。たしかに何も言い返せなかったが、それでも挑むように、問い質すように彼を睨み付けた。

 お前も私を敗者にしたいのか、と。


 だが、私から見れば、彼女は凡人ではない。いや凡人だけど。5年も回り道してようやく自分の夢の在り処に気付くほど鈍臭くて、どんなに無気力に苛まれてもテレビに出てきたアイドルに影響されてやる気を出しちゃうほどチョロい凡人だけれど、少なくとも”敗者”ではない。


 何故なら彼女はゾンビだからだ。もう既に神の裁きを覆してしまった。いま彼女が動いていること、言葉を紡いでいること、アイドルとして活躍していることこそが、神との闘いに勝利した証左なのだ。というか、もとより彼女は一度も負けていない。何故なら彼女はチョロいからだ。失意の底に居ますみたいな顔をしておきながら「アイドルとしてのお前を待つ者がいる」と言われただけで、ちょっと目を輝かせてしまうほどチョロいからだ。チョロいとは、言い換えると、どんな絶望のなかでも一片の希望を手放さない、ということだ。彼女が「努力の天才」たりえた所以もきっとそこに在る。自分は鈍臭いけど努力すればもしかしたら誰よりも上に行けるかもしれない。そんな楽観主義が彼女を「努力の天才」にしたのではないか。そしてチョロい人を本気で絶望させるのは至難の業だ。神でさえ命を奪わなければその歩みを止められないほどに。

 

 そして命を奪われたにも関わらず、それでも源さくらは歩みを止めなかった。

 寧ろ他の誰よりも早く、前に進むことを決断した。


 もういいだろう。私の本音を記す。源さくらの死は、諦めたまま無為に生きて、その当然の帰結として伝説を遺せなかった凡人の末路ではない。断じてない。こいつのチョロさを舐めて貰っては困る。彼女の死は、最期まで自分の宿命に挑みながらも、圧倒的な不運の前に絶筆を余儀なくされた未完の伝説だ。


 その続きを記すためには神の裁きすら覆すしかない。

 つまり、ゾンビになった今だからこそ、さくらの自己実現はきっと成就する。


 それでも神が見捨てると言うなら、巽幸太郎が、フランシュシュが、作中のフランシュシュのファンが、そしてアニメ「ゾンビランドサガ」のファンが、源さくらを見捨ててやらなければいい。天に牙を剥いて「何が神の冒涜か!裁きなどさせない!」と叫ぶ源さくらの闘いを皆で見守ってやればいい。


 そう、源さくらがゾンビとして生まれ変わり、その上でアイドルになった事には、ちゃんと意味があったのだ。(NO ZOMBIE NO IDOL とはよく言ったものだと思う。)

 

 だから最終話で巽Pには、源さくらを応援する全存在を代表してこう言って欲しい。

 


「伝説を創ってこい、源さくら。

 その名が天に焼かれようとも――俺がお前を見ている。」

 

 

*1:そうした構造を彼らは「現代社会の病理の風刺」と言ったのかもしれない。