ぽてかなの私見

「記憶は薄れるから、記録しておくんだよ」「記憶なんて生きるジャマだぜ」

アニメ「メイドインアビス」 雑感

 メイドインアビス見ました。

 

 ネタバレ感想です。思いついた事を書き殴る感じなので文章構成は気にしないで。

 

 非常に完成度の高い王道冒険活劇でした。前後の描写がしっかり噛み合っていて互いにエクスキューズとして機能しつつ、それでいて予定調和から半歩だけ逸脱する絶妙な裏切り。情念や涙腺に訴えられるというよりは冷徹で論理的な展開に舌を巻くことの多い作品だった。シナリオだけでなく背景美術や音楽、SEなどの要素が過不足無く主張しあっていてアニメとしても魅力たっぷり。しかし個人的にはキャラの独り言やモノローグが多くて気になったけど、さりとて”言外の語り”的な表現を完全に放棄していた訳でもなさそう。ミーティの殺害を受諾したレグにナナチが左手を置いてやるシーンなんかは分かり易い例だよね。だから恐らく沈黙の美学を理解しつつ敢えて視聴者側に寄せるために説明的な字句を増やしたのだろうと私は推測した。それはそれで1つのスタイルとして(好き嫌いとは別に)尊重したいと思う。

 

 正直オーゼン編までは丁寧な作品だなと思いつつも予定調和の向きが強くて少々冷めた心持ちで見ていた。例えばオーゼンみたいなキャラが実は優しい人でした云々はハイコンテクストと言って差し支えない展開だから。他の展開も私の予想を遥かに超えるようなものは見当たらなかった。そんな訳でこの作品は堅実な造りを売りにしているのかななどと勝手に思い込んでいたのだが、そんな風に高を括っていたら直後の第三層、第四層への繋がりで一気に引き込まれた。

 

 リコとレグの繋がりを客観視点(オーゼン編)→主観視点(第三層)の二段階で描きつつ、そこまで丁寧に積み上げたモノを一瞬で完膚無きまでに粉砕する(第四層)という歪み1つない完璧な流れ。そしてコレはかなり悪辣な(褒め言葉)構成なんじゃないかと思う。最初の客観視点は視聴者側に近い言及だ。それを主観視点に繋げることはすなわち、視聴者をリコとレグの方に近付ける誘導レールのような役割を果たしているのではないかと思う。そうしてホイホイ引き込まれた哀れな視聴者の鼻っ柱に第四層での惨劇を叩き付けるという訳だ。理性的にも感情的にも逃げ場を潰されて、真正面から2人の痛みと向き合えるようお膳立てされている。

 

 そこで言及せねばならないのはやはり骨折の件。
 私は今迄の人生で何度か骨折を経験している。そのせいで骨折の描写には一家言あって例えば「折れてるのに意思の力で何ともなさそうな表情を保っている」みたいなパターンは余程ハッキリしたエクスキューズでもない限り個人的には認められない。そんな私から見てもアビスの骨折ダメージ描写は非常にしっくり来る。骨折シーンの白眉と言っても過言じゃないと思う。
 片足が捻れ折れたときの体験談を話したい。まず時間が止まる。目の前の風景が異常にゆっくりと流れる。そんな奇妙な一時を最後に記憶が途切れる。そして自分の叫び声で我に返る。あの感覚。あれを客観的に見たらアビス10話の骨折描写になるんだろうなと感じた。ちゃんと折れる瞬間にはリコの時間が止まるような演出で、ワンテンポ置いてから悲鳴を上げる。共生キノコを抜くときには時間が止まるような演出が無かったことも併せて見て頂きたい。綺麗な対比になっている。それだけ骨折シーンを作り込んでいるということ。(更には表情や白笛を握り締める右手から意識を完全に手放したわけではない事も分かる。この辺は上述の「自分の声で強制的に起こされる」感じを表現しているのかリコの意志の強さを表現しているのか判断が付かないけれど。)

 

 このやたらと気合の入った骨折描写に何の意味があるのか。それは骨折という概念が第四層のシナリオの骨格を象徴しているからだと思う。
 今迄積み上げた2人の絆は惨劇によってリコの腕ごとズタズタにされた訳だけど、それがナナチとの絡みを経て更に強固な繋がりを生むという流れは「折れた骨がもう一度繋がることで元より強度が増す」という骨折の概念と完全にリンクしている。
 そして骨折は時として重大な行動障害を残すこともある。リコ達も今回の件で何もかも元通りになった訳ではない。消滅したミーティ。動かない左腕。喪ったモノも色々ある。その象徴がリコの左腕の傷だ。そしてリコはレグとの絆の証として左腕の傷を受け入れた。
 治癒可能であるが故に可逆的でありながら、時として強化あるいは後遺症という形で不可逆の側面を見せる「骨折」という概念。言われてみれば人と人の繋がりの変化を描く上でこれほど象徴に相応しいものもない気がする。過言かな。まぁともかく、そうした構造的な視座でも、この作品は骨折描写の白眉と言ってよいと思う。

 

 さて骨折の話は一段落したので余談。
 個人的にボンドルドさんの在り方を特筆したい。五層で子供たちを使って実験をしている白笛のことです。(現時点での描写を見る限りでは)彼の研究者としてのスタンスはリアルの動物実験者に近いと個人的に思う。被験体を本心から可愛らしいと思いつつ新しい可能性のためなら特に悪気なく消費してしまえる、この界隈では本当にありふれた狂気の沙汰。だから彼のスタンスには妙な納得感というか親近感を覚えたりもする。私もその手の作業に従事していたことがあるから。……と言うと自称サイコパス系のイキリに聞こえるかもしれないけど。
 ただ人間性喪失ミーティへの虐待は「被験体をなるべく苦しませない」という動物実験倫理の大原則に反しているので、やっぱり単なるサイコパスなのかもしれないですね……。でも検証のために必要とあらば痛みを与えることも辞さないのが動物実験者だから、そういう意味ではコレもリアルに近いスタンスと見るべきかもしれない。問題は人の子供を実験動物扱いしている点だけど、孤児院で家畜以下の生活を強いられる子供達を使っているので、倫理観が致命的に壊れていると断ずる事も難しい。
 つまり何が言いたいかと言うと、非常に厄介な人ですね!ということだ。リコにとって。そして何より視聴者にとって。バイキンマンみたいな分かり易いサンドバッグでもない。思想の狂いを指摘してスッキリすることも出来ない。現実にある範囲の狂気を誠実に描写している感じでこれまた逃げ場がない。これは今後の第五層での話が楽しみになってきますね……。

 

閑話休題

 さて現時点で来歴がハッキリしているキャラはリコとナナチの2人なんだけど、その2人とも生い立ちと人格形成がちゃんと噛み合っていて面白いなと思う。
 リコの好奇心旺盛な質がライザの放任主義により育まれたことは言うに及ばないので割愛。注目したいのはナナチのちょっと不遜気味なところで、あれは抑圧され除け者にされた過去からの反転で自分自身を誇張する癖が付いた結果なのかなと思っている。
 第五層の子どもたちの待機部屋でミーティに本を紹介したときにナナチは「他のやつは文字が読めないから本は拾わない」みたいな発言をしていた。あの発言もモチベーションは上記の誇張癖なんじゃないかなと思う。ミーティという格好のイキリ対象が目の前に居たことも原因の1つかもしれない。
 ナナチのそういう所、というのは、本質的に自己表現が苦手な所が私は愛おしく思う。陽のコミュ障と言うのかな。ミーティはナナチのそんな性格をどう捉えていたのだろうか。今後の話でミーティ側から見たナナチへの印象も描かれると面白いかもしれない。期待したいところだ。

 

 さて。話は変わってミーティについて。
 最初はライザの成れ果てと予想した人も多かったのではないだろうか。やたらとリコに執着するミーティ。空席のライザの墓。このタイミングで想起されたレグの記憶。これはもうラストダイブで人間性を喪失したライザの成れ果てとミスリードさせようとしているようにしか思えなかった。私はその可能性に慄きつつ、いや、それなら11話冒頭の想起カットで出てきた女の子は誰なのか、おそらく彼女がミーティだろうと考えを改めた。しかし、まさかアフターケア(リコの夢に出てきたという話)まで詰めてくるとは読めなかった。あれも本当に巧い描写だと思ったので、これについて色々書き記して記事を終わりたいと思う。


 まずミーティがリコの苦しみを理解していたということは、彼女にも意識が残っていた可能性を示唆していて、それが意味する所は彼女がしっかりとナナチの慟哭を受け取っていたのかもしれないということである。ミーティの叫びや涙は単なる"反応"ではなかったのかもしれない。それがナナチに伝わることでナナチもミーティも少しは救われただろう。
 そして裏を返せばここで救いがあるからこそ火葬砲シーンでは何の奇跡的演出(例:光に包まれた人間ミーティの幻覚が「ありがとう……」などと言いながら消えていく割とありがちなパターン)もなく呆気ない消滅によって深い痛みを描くことが出来たのだろうと思う。
 更に「肉体の消滅によって魂が解放される」というナナチの見立の正しさがリコの「ミーティは振り返らず”憧れ”を湛えた顔のまま去っていった」(=苦しみから解放されて在るべき魂の形に戻った?)という台詞から証明されるのも巧い。そこでミーティの意思を受け取ることでリコと同じくナナチもまたアビスの底への憧れを思い出したのかもしれない。だからこそ彼女はリコ達への同行を受け入れたのだろう。

 

 本日はここまで。

 また次の記事で。