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ぽてかなの私見

「記憶は薄れるから、記録しておくんだよ」「記憶なんて生きるジャマだぜ」

シン・ゴジラ雑感

 シン・ゴジラを見たので雑感を書き殴った。構成も体裁も考えなかったので読み難い事この上ないが、興味のある人は楽しんで貰えると幸い。言うまでもないがネタバレだらけの既視聴者向けです。それでは、どうぞ。

 

・今回の東宝式戦車道について

 見る直前に私は「東宝式戦車道は棒立ちで撃つパターンが多すぎ。今回は”撃ったら即座に回避行動”という基本戦術を放棄していなければいいのだが。」といった趣旨のツイートをしたのだが、蓋を開けてみれば不満半分、満足半分といった所だろうか。相変わらず、得たいの知れない怪物を相手に側面を向け、車体を丸ごと晒しているのは気になるものの、息をするかのように行進間射撃やスラローム射撃を命中させていく10式の勇姿は感嘆に値する。全車が一斉に砲塔旋回してゴジラに砲身を指向させるシーンも、地味ながらミリタリ心を的確にくすぐる素晴らしいカットだ。さすが庵野さん、分かってらっしゃる。

 ……とはいえ今回は相手が熱線を繰り出す前に陸軍が全滅してしまった事もあって、「本気のゴジラVS10式軍団」という私の見たかった構図は残念ながら無かった。どうせ、あのゲロ火炎で丸焼きにされる事は分かっているが、それでも「戦車の縦深突破でゴジラの注意を引き、その隙に航空支援や遠距離ミサイルを命中させる。」という”なんちゃって電撃作戦”(本来のグデーリアン式と順序は逆だが)とか「10式が熱線を掻い潜って華麗にスラローム射撃を決めるシーン」を私は期待していたのだ。うーん、せめてハルダウンで待ち伏せたり建物の影に隠れたりする、ぐらいの警戒体制であって然るべきじゃないかね………。何せ相手は得たいの知れない怪物なのだから。側面を晒すのは舐めプでしかない。

 まぁ、色々と気になる点は尽きないが、いつもの単なる”やられ役”とは一味違った活躍が見られただけでも、戦車ファンとしては満足するべきなのだろう。次があるなら是非、機動戦や二重包囲を利用した少し複雑な戦術構想を期待したい。

 

・例のBGMについて
 エヴァというより元ネタの007の方に近いアレンジだったと思う。飾り気が無く、危機感を煽る事のみに特化した形。これが物語の推移によって、段々と勝利BGMのような雰囲気にアレンジされていくのが印象的だった。

 1つのBGMをマイナーチェンジしながらシーンの変化に合わせて繰り返し流す。この表現の長所はシーン毎の対比が劇伴のみで伝わりやすい事。短所は基本のメロディラインが変わらないので飽きやすく、また、このBGM自体を嫌っている人にとっては地獄でしかない事だ。(ちなみにガルパンの劇伴が好きな当方にとっては、非常に好ましい運用方針でした。シン・ゴジラほどではないが、この作品も同じメロディをしつこく繰り返す作品だから。)

 また(個人的には気にならなかったが)没入感を大事にする人にとって、この手の内輪ネタは唾棄すべき下策だろう。BGMが流れる度に物語から現実へと引き戻されるからだ。このBGMが流れる度に笑い出す迷惑なオタクが各地で出没したとも聞く。何にせよ好き嫌いの別れる表現である事には間違い無さそうだ。

 

ゴジラの生物学的な考証について
 他のゴジラシリーズより少し突っ込んだ議論を重ねているのも本作の特徴。しかし、これが返ってツッコミ所を増やす結果に繋がってしまったと思う。まず酸素も食料も要らない完全生物なら口は不要だろう。百歩譲って「口は背ビレと同様に放熱に特化した器官である」と仮定しても、その先に食道や胃が存在するとは限らない。ならば何故凝固剤が経口投与がゴジラに効いたのか、ゴジラバイアベイラビリティはどうなっているのか、検証実験で凝固剤の選定を行ったというがin vitro実験だけで判断できるとは思えない……など、矢口プランに対する致命的な疑問符が大量に浮かんでしまう。(とはいえ静注が無理臭いのも事実なんだよな……。)

 また、新元素の半減期が何かのオマケのように処理されてしまったのも、個人的には勿体無いと感じる。ここで仮に微生物と新元素との関係に言及されていたら、牧悟郎が新元素の設計にも一枚噛んでいる事になり、巷で散見される牧悟郎ゴジラ説の信憑性が更に高まるだろう。故に勿体ないと思った。

 好き勝手言ったが、私はまだ本作を1回しか見ておらず、全ての描写を拾えたとは言いがたい状況だ。2回目、3回目を見る機会があれば、もう少し詳しく生物学的に考察してみたい。その時は、この記事に追記したいと思う。

 

・人間ドラマについて
 徹底的な法的根拠の検証や現代的なモブの反応などに関しては先人が好きなだけ語ってそうな気がするので、ここでは割愛。個人的に好ましいと感じたのは「”現実”を群像的かつ無機質な作劇で見せる」というゴジラにしては新たな課題に取り組みつつ、一方で「主人公とその取り巻きが独自に調査を進める」という古典的なエンタメ要素を忘れなかった点。また、主人公の周りの彼らが総じて早口なので、限られた尺に情報を詰め込めるのは勿論、その早口がキャラクター付け(要はオタク臭い)として機能しているのも巧いと思った。最初のチーム紹介でテンポよく全員をdisったのがファインプレーだろう。あのシーンで主人公チームに愛着が湧いた人は少なくない筈。
 怪獣映画には「他の奴の足を引っ張りたくて仕方ないキャラ」が独りは必ずつきもので、そいつがヘイトを一身に背負うからこそ、主人公その他を「純真な存在」として表現する事が出来る。しかし「日本はまだやれる」という台詞の通り、シンゴジラに無能や悪役(牧悟郎は悪役というより……)は出てこなかった。日本政府は一丸となって脅威に立ち向かうが、しかし決して一枚岩ではない。一人一人の立場、思惑、矜持が台詞や表情、そして行動選択に顕れていた。だからこそ、それを問答無用で消し炭にするゴジラの災害っぷりが効果的に強調されている。終末の光は人間の尊厳など考慮してくれない。それを踏まえて、尚、現実の象徴を総動員して挑む人類がアイロニカルで痛快だったのだが、それに関しては後述の「ヤシロギ作戦について」で述べる。

 

・ヤシロギ作戦について
 新幹線や在来線、高層ビルなど日本の文明(現実)の象徴を総動員してゴジラ(虚構)を圧倒する。まさに圧巻。兵器だけでなく日本の全てをゴジラに投入しつづける泥仕合に惹き込まれた。

 そもそも、この作戦が成功しないor間に合わなければ、核兵器ゴジラに打ち込まれる事になっていた。核の象徴に対して核を使う。これは東京SOSで強く訴えられた「人類は過ちを繰り返す」を地で行くような作戦だ。それをヤシロギ作戦は真っ向から否定した。この構図は前述の「日本はまだやれる。」に繋がる文脈だと私は考える。

 また第一小隊の全滅に際して矢口が目を伏せたのも印象的。予てより東宝自衛隊は味方の犠牲に冷た過ぎないかと思っていたので。「戦争映画じゃないので、その手の描写はオミットして然るべきだろう。」という主張も分からなくない。テンポの問題も有るし。だから一瞬だけ矢口が目を伏せるカットを挟む。アレは必要十分の表現だと思う。尺の問題も有るしね。

 ただ強いて言うなら、ゴジラの抵抗が少しショボかったのは残念。尻尾から熱線を出すギミックも白昼という時間帯のせいでイマイチ画として映えなかった。もっと人類の想像しえない手段でゴジラが抵抗し、それに対して矢口が重大な決断を下す、という場面があれば、もっと盛り上がったのに。そも矢口が現場にいたのは、その場で政治的な決断を下せる人間が必要だったからと説明されている。これは何か起こるフラグだろうと思ったが、特に回収される事なく終わったのは肩透かしだ。

 

ゴジラについて
 今回のゴジラは他のシリーズに比べると色々な要素が混在している。基本的には単なる巨大生物であり、GMKゴジラみたいに人間を殺す事へ生き甲斐を感じているような素振りは見せない。知性にも乏しいと見える。しかし、そのルーツには当然ながら”核廃棄物”という人間の罪がある。また、仮に牧悟郎が融合しているなら、放射線や日本への恨みがインストールされている事になる。このゴジラが都心に執着した理由も自ずと想像がつくだろう。

 このように相反した概念を併せ持つシンゴジラだが、現代日本では地震津波、火災、大雨、落雷と等しく「災害」として処理される所に、一抹の虚しさと不思議な安定感を覚えた。これだけの要素を混在させれば統一感の無さに違和感を覚えて然るべきだと思う。しかし、結局のところ人類から見ればゴジラも単なる「災害」でしかない、そう弁えた途端に全てが虚飾に見えた。矢口は「ゴジラと共存するしかない。」と言ったが、「災害」に対しても同じことが言える。この作品はゴジラという存在ではなく、その捉え方にメッセージを込めたのだろう。変則的だがこれほど”現実対虚構”に相応しい表現はないと私は思った。*1

 

 まだ書き足りない事が有るけれど、気力と時間が足りないので、ここで擱筆する。筆を走らせて実感したが、やはり1回見ただけでは記憶から抜け落ちている点が多い。これは他のゴジラシリーズにも言えること。時間を見つけて過去作を観直した上で、再度、シンゴジラを鑑賞したい。以上、こんなメモ紛いの文章を読んでくれて感謝する。

 

【追記 16/08/04】

 そういえば以前twitterで「シン・ゴジラでは9条が無視されているので、確かに”左右の9条論への揶揄”というポリティカルなメッセージが込められているのだ。」という評論を見かけたが、本作を鑑賞した今になっても結局、ピンと来なかった。

 9条は対象を”国際紛争”に限定した法規なのだから「”自然災害”であるゴジラに防衛出動を行う法的根拠の議論」で引き合いに出されないのは至極当然の流れであり、そこに何か9条への特別な意図が込められているとは思えない。発言者は「シン・ゴジラ自衛隊法の解釈次第で9条を無視した防衛出動が可能である事を証明した」といった趣旨の発言をしているけれど、それはあくまで相手が”ゴジラ”である場合の話だろう。確かに「もし事が国際紛争であったとしても、国は同じ対応を取ることが可能なのではないか……?」というクエスチョンは興味深いけれど、少なくとも作中では議論されていない案件だ。故に私の持論においてはシン・ゴジラと”左右の9条論”は無関係であり、制作陣が上述の意図を込めているとは考えにくい。

 一方で深読みするのは別に個人の自由だと思う。誰に制限される謂れもない。揶揄している可能性もゼロではないのだ*2。ただし、その自説を他人に上から目線で押し付けたり、主観に過ぎない意見を”確かにある”と事実であるかの如く断定したりすると、当然ながら要らぬ反感や誤解を招いてしまう。人の振り見て我が振り直せ。私自身も肝に命じるべきだと痛感した。

*1:あの終わり方を”投げっ放し”と評する者もいるが、私はそう思わない。矢口はゴジラとの共存を覚悟した。それは作品としての結論とも言えるからだ。

*2:真相は制作陣のみぞ知る。