ぽてかなの私見

「記憶は薄れるから、記録しておくんだよ」「記憶なんて生きるジャマだぜ」

【22/7】7話 雑感 ── 戸田ジュンを絡め取るアイドルの刹那性と永遠性

「推しは推せる時に推せ」

 7話を見た時、この決まり文句を真っ先に思い出した。

 刹那性はアイドルの宿命である。推す側も推される側も須らく不変ではない。好きでいる事。好かれる事。何方も継続するには多大なリソースを要する。いつか終わりは訪れる。その”終わり”を悔いの無い物にするために、今の内に全力で応援する。そのムーブメントは結果的にコンテンツの延命に繋がる事もあるかもしれない。要するに「推せる時に推す」という在り方は、刹那性を克服するための1種のライフハックみたいな物なのだろう。しかし、この考え方は楽観的な前提の元に成り立っている。それは「”終わり”を悔いの無い物にする」という部分だ。そんな事が本当に可能だろうか。その疑問を「22/7」7話は真正面から問い掛けて来たように思う。

 つまり何が言いたいかと言うと、松永悠は戸田ジュンが生まれて初めて出会った”アイドル”であり、悠の死はジュンに”終わり”を突き付ける物であった——即ち、アイドルの刹那性を象徴しているのではないか、という事だ。

 もちろん悠は本物のアイドルではない。しかし、俯きがちだったジュンを光の下へ連れ出したのは、他の誰でもない松永悠だ。影から光へ。青空を見上げて。そうした描写は劇中の随所に散見される。

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 特に画像4枚目のカットでは、ジュンの目が背景の金網より高い位置に来るようレイアウトを組む事で、悠に手を引かれた彼女の心が少し上向きになっている様子が分かりやすく演出されている。他にも22/7 7話では「ジュンの目線が何処を向いているか」が、背景との位置関係も絡めて丁寧に描写されている。

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 最も分かりやすいのは、病院のベッドで病院食を口にするシーンだ。ヘッドボードの穴に注目して欲しい。悠と出会う前のシーンでは両眼の位置が下の線に被っている。次、悠と邂逅し、画面右手のフレーム外にいる彼女と言葉を交わすシーンでは、片眼だけ下の線から外れる(ここは顔を傾ける芝居の中で偶々そうなっただけかもしれないけど)。そして最後、味気ない筈の病院食を楽しそうに頬張るジュンの両眼は、遂に上の線に重なる。周囲の人々の心を上向きにする松永悠の在り方は、ジュンの心に深く印象された理想のアイドル像そのものと言える。

 しかし、繰り返しになるが、刹那性はアイドルの宿命である。

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 楽しい時間に突然の”終わり”を告げる悠の死。夕立、沈む太陽、茜色の空。それら全てが「永遠に続く青空など存在しない」という当たり前の真実を少女に突き付ける。雨の影が無数の矢の如くジュンの影に刺さるカットは、彼女を苛む罪の意識の表れだろうか。そして黄昏時。その語源が示す通り、沈み往く太陽は1つの問いを投げ掛ける。——そこに居るのは誰か。少女が選び取った答えは、松永悠の在り方を受け継ぐ事だった。それは刹那性の否定である。「推せる時に推す」が刹那性の受容なら、その真逆の道を少女は選択したのだ。松永悠というアイドルを永遠にする事。それは「戸田ジュン」というアイドルが歩み出した茨の道の正体に他ならない。

 そこで1つ、疑問に思う事がある。なぜ松永悠は戸田ジュンのアイドルたり得たのだろうか。それは結論から言えば、悠もまた”アイドル”に救われたからではないか、と私は考える。       

 病院の塔屋の上で2人が会話するシーンを思い出して欲しい。

「ずっと、このままだったら、どうしよう。」

 まるで歩き疲れた迷子みたいな顔で少女はポツリと本音を零した。その憂苦に満ちた感情を聞き届けた悠は、一瞬だけ淋しそうな表情を見せる。 

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 それが意味する所は本人にしか分からない。しかし少なくとも私には、その感情はジュンにだけ向けられた物ではないと感じた。憐憫や同情ではない。それはきっと自分自身に向けられた情念だ。そこに解釈の刃を差し込むとすれば、私は2つの可能性が考えられると思う。

 1つ目は、かつての自分と目の前のジュンを重ねている、という解釈だ。彼女の内心を言葉にするのであれば「(私も、こんな気持ちだったな……。)」だろうか。こちらの方が一般的な解釈に近いかもしれない。2つ目は、ジュンの悩みを羨ましく思っている、という解釈だ。つまり、悠は自分の命がそう永くないことを知っていて、未来がある事を前提としたジュンの言葉を羨ましく思った。自分でも深読みが過ぎるとは思うが、あの表情を見た時、私には「(ずっと、か……。)」という悠のモノローグが聴こえた気がするのだ。そう考えると「折角、遊園地に来ているのに、悲しい顔なんて勿体ない、だよ。」という台詞も、何処か時間制限を念頭に置いた言い回しだと思えて来ないだろうか。何方にせよ、このシーンから私は、かつて悠もまたジュンと同じように影の中で俯いていた時期が在ったのではないか、と推測した訳である。

 そんな悠が「人生は遊園地だ」という考え方に至ったのは何故か。その過程にはどんな出会いがあったのか。それを考えるためには悠の過去を知る必要がある。2人でカラオケに行くシーンを見返して欲しい。悠は「恋するフォーチュンクッキー」をモニターを見ずに歌っていた。動画サイトでMVを確認してみた所、ダンスも正しい振付で踊れているようだった。有名な曲とはいえ、好きでもないアイドルの歌詞と振付を両方とも覚えて、友達に披露してみようとは思わないだろう。悠にとって、この曲とそれを歌うアイドルは、それだけ大事な存在だったのだろうと思う。そして、このシーンと塔屋で彼女が見せた憂い顔とを(牽強付会を承知で都合よく)繋げて考えるなら、病に対する憂苦から彼女を救い出した存在こそが他でもない”アイドル”だった……という憶測も可能なのではないだろうか。勿論、他にも解釈の余地はあると思う。それでも私が上記の解釈を選んだ理由は、そこにアイドルの永遠性を感じたからだ。

 かつて”アイドル”に救われたかもしれない松永悠が、恩返しのように誰かを光の下へ連れ出す。その「誰か」は今、”アイドル”戸田ジュンとして皆に笑顔を届けている。”アイドル”という救済が人から人へと受け継がれていく。生と死の境界すら超えて。松永悠の死はアイドルの刹那性を象徴していると私は言った。刹那性はアイドルの宿命だとも言った。しかし、その刹那性では断ち切れない何かがある。悠と共に死ななかった――ジュンが死なせなかったアイドルという名の救済。コンテクストと言っても良い。そこにはきっと一つの祈りが込められている筈だ。……それでも永遠であって欲しい、と。

 それを踏まえると、悠がジュンを元気付けるための曲として「恋するフォーチュンクッキー」を選んだ理由も、(もちろん「秋元康コンテンツだから」以外で)何となく想像がつくのではないだろうか。

「未来はそんな悪くないよ」

「人生捨てたもんじゃないよね」

「あっと驚く奇跡が起きる」

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 そのマイクは、さながらバトンのように。受け継がれた物は、松永悠のアイドルめいた在り方だけではない。「折角、遊園地に来ているのに、悲しい顔なんて勿体ない、だよ。」そう語った、雲一つ無い青空のような笑顔。未来に怯える事なく人生を楽しむこと。それは即ち、刹那性を否定し、永遠を夢見るムーブメントそのものだ。

 刹那性はアイドルの宿命である。それでも”アイドル”戸田ジュンは元気に笑い続けるのだろう。喩えそれが誰かの真似事でしかなくて、その笑顔は誰かが自分に向けてくれたモノの残滓に過ぎなかったとしても。吸い込まれるような青空に足を踏み入れ、彼方へ消えて行った飛行機雲を何時までも、何時までも追い続けるのだろう。時には、気弱な本音が顔を出す事も、あるかもしれない。それでも最後には満面の笑顔で言うに違いない。

 「本当に楽しかった!」と。

【響け!ユーフォニアム】久美子があすかを説得するシーンのカメラワークについて

 こんにちは。
 ぽてかなです。

 

 今回は「響け!ユーフォニアム」の記事です。なぜ今更この作品を?と思われる方も多いかとは思いますが、それは先日、私が立川シネマシティで初めて「響け!ユーフォニアム」1期のオールナイト上映を拝見したからです。*1”初めて”というのは、オールナイト上映が初めてという事ではなく、作品自体が初見でした。

 嵌りました、物の見事に。

 帰るやいなや早速、私は「響け!ユーフォニアム」シリーズのアニメ作品を見漁りました。普段はtwitterで感想を簡単に述べて終わる事の多い私ですが、本作に関しては少し本腰を入れて語りたいと思い、筆を執るに至りました。

 特筆すべき点を挙げれば枚挙に暇がない作品ではありますが、本記事では「響け!ユーフォニアム 2」10話および「劇場版 響け!ユーフォニアム ~届けたいメロディ~」から、久美子があすかを説得するシーンをピックアップして、そのカメラワークについて所感を述べたいと思います。何故このシーンなのか。何故カメラワークなのか。それを敢えて語る事はしませんが、記事を読んでいただければ何となく伝わるのではないかなと思います。

 素人目線の雑感なので正解かどうかは不明ですが、自分はこのシーンをこう解釈して楽しんだよ、という解答例の1つとして捉えてもらえれば幸いです。

 

 まず全体の流れから。
 このシーンは、家庭の問題でコンクールへの不参加を選択したあすかを、久美子が説得するシーンです。スタート地点がネガティブなので、基本的には日陰にカメラを置いて影から2人を映す、という構図で進行します。久美子の説得であすかの心が動かされると、カメラがイマジナリーラインを超えて日向側に移る回数が多くなります。そして最後にはアングルが日向側に固定され、2人がゴミ捨て場(日陰)から外(日向)へ出てくるカットでシーンが終了します。
 ネガティブからポジティブへ。
 日陰から日向へ。
 この対比でシーンの展開とカメラワークが連動していると私は感じました。

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これが……

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こうなって……

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こうなる

 さてシーンの開始地点に戻ります。久美子が「みんな言ってます。あすか先輩が良いって。」と説得の言葉を投げ掛けると、カメラがイマジナリーラインを超えて日向側に移動します。しかし、すぐにカメラがあすかに寄ると、彼女は「みんな?みんなって誰?」と久美子の主張の弱点を容赦なく突き崩します。そしてカメラは再び日陰側に戻ります。会話の主導権の奪い合いがカメラワークで表現されている訳です。

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 そのまま、あすかは久美子を説き伏せて、彼女の横を通り過ぎて立ち去ろうとします。しかし刹那、久美子が「だったら何だって言うんですか!?」と叫びながら振り返ると趨勢が変化し、それに合わせてカメラワークも久美子寄りに変化していきます。「たしかに先輩は正しいです」と久美子が言うカットでカメラがイマジナリーラインを超えると、今度はあすかではなく久美子にカメラが寄ります。そしてアップで映された彼女は”みんな”ではなく自分自身の剥き出しの本音――「あすか先輩と本番に出たい。私が出たいんです!」――をあすか先輩に叩き付ける。ここで完全に久美子が主導権を握った。台詞だけでなくカメラワークもそれを示唆していると感じました。

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 また余談ですが、2人の位置関係が途中で変わることで、2人に陽の光が当たる角度も自然と変わります。影から光へ。これも巧いなと思いました。アニメを見ていると話が好転するシーンで、急に外から異様に強い陽光が室内に差し込んできたり、土砂降りの雨が唐突に止んだり、といった不自然な情景描写に遭遇する事があると思います。このような違和感を視聴者に覚えさせる事なく、状況と情景をリンクさせるためにはどうすればいいか。その模範回答の例をここに見た気がします。

 

 そして本番はここから。
 久美子が「先輩こそ何で大人ぶるんですか!?」と激情を吐露するカット。

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 このシーンでは久美子とあすかがそれぞれ、キャラクターの後ろに空間を作るレイアウトで配置されます。久美子の背後には陽光を浴びる木々が奥側に見えるのに対して、あすかの背後は校舎で陽が遮られて暗く見えます。それだけではありません。丁度、背景の校舎の壁があすかの背中に沿うような形で配置されているので、まるで久美子があすかを壁に追い詰めているかのように見える構図になっています。
 それに加えてダッチ・アングル。あすかが左上、久美子が右下。上手(右)にいる久美子が、下手(左)にいるあすかに下から挑み掛かるような構図。喩えるなら久美子があすかの胸倉を掴んで下から絞り上げるような構図です。

 ここで少し遡ってみると「心配しなくても、みんな私の事なんかすぐに忘れる。一致団結して本番に向かう。」とあすかが久美子に言い含めるカットでも、ダッチ・アングルが使われている事に気付きます。ここでは久美子が左下、あすかが右上です。あすかが久美子を圧倒している。それが「だったら何だって言うんですか!?」を経て立場が逆転した訳です。

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 さらに遡ると「みんな、絶対、あすか先輩に出て欲しいと思っています。」と豪語する久美子に対して、あすかが屈んで下から久美子の顔を覗き込みつつ「黄前ちゃん、そう言える程、その人達のこと知ってるのかな?」と静かに問い質すカットがあります。そう、ここではダッチ・アングルは使われていない物の、あすかが下から久美子を攻撃しています。「先輩こそ何で大人ぶるんですか!?」のダッチ・アングルは、このカットに対する意趣返しという気もします。

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 話を戻します。さらにこのカットでは、キャラクターの前の空間が描写されておらず、これが次のカットへの前振りとして機能しています。「先輩だって、ただの高校生なのに!」その言葉が久美子から放たれると同時に、久美子からあすかへ、カメラは実際の距離を無視してパンしています。本来、2人は少し離れた位置で会話していますが、レイアウトとカメラワークの妙で、この瞬間、まるで2人が至近距離で会話しているかのような錯覚に陥ります。久美子の言葉が遂に、遂にあすかの心へ刺さった瞬間。2人の精神的な距離の変化が表現されたと感じました。

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 ここから久美子がヒートアップしていくにつれて、目紛しくカットが切り替わるようになります。そして繰り出されるダッチ・アングルの嵐。細かいものまで全て挙げるとキリがないので2つだけ紹介します。
 まず「私はあすか先輩に本番に立って欲しい!」と涙ながらに訴えるカット……というか、この台詞だけで4回もカットが切り替わるので、正確には”私はあすか先輩”の部分になります。このカットでは、あすかが左下、久美子が右上に配置されます。もはや"挑む"というフェーズは終了して、あすかを"圧倒する"段階に移行しています。

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 そして直後の「あのホールで先輩と一緒に吹きたい!」という台詞の"あのホールで"までのカットでもダッチ・アングルが使われています。しかし、ここのダッチ・アングルは今までと異なり、対比軸が変化しています。今までは2人を横から撮る画角で傾斜を掛けていましたが、今回は久美子の正面にカメラが置かれています。2人の何方かではなく、日向側が左下、日陰側が右上なのです。もはや言うまでもない事でしょうが、これは状況が好転した事を指していると私は考えます。

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 ちなみに、これの少し前にも同様に日向側へ傾いている(こちらはあすかの顔が見える位置にカメラが置かれています)カットがありますが、そのカットよりも"あのホールで"のカットの方が傾斜がきつくなっています。状況の進行。角度の変化を含めての表現だと私は思いました。

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 そうして久美子が思いの丈を全て吐き出すと、あすかは「なんて顔をしているの?グチャグチャだよ?」と笑いながら久美子の元へ歩み寄ります。そして彼女が久美子の頭に右手を置いた瞬間、カメラもまた完全にイマジナリーラインを超えて日向側へ。

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 以降のカットは全て例外なく日向側から映しています。このシーンはあすかの台詞も好い。「そんなんだったら言わなきゃいいのに。でも……嬉しいね。嬉しいな。」他人事のような言い回しが徐々に崩れていく。本音には本音を。感情には感情を。その上で「顔、見てもいいですか?」「ダメ。見たら末代まで呪われるよ?」ここでカメラもあすかの表情を映さないのが好い。あすかへの思い遣りと久美子や視聴者への「見せなくても(それまでの描写で)分かるでしょ?」という自負と矜持を感じた気がしました。

 

 さて、このシーンのカメラワークについて自分の所感を説明してみましたが、如何でしたか。自分でも少し牽強付会かなと思う部分はありますが、それも1つの見方として楽しんで貰えれば幸いです。あるいは逆に私が見落としているだけで、まだまだ色々な仕掛けがこのシーンには仕込まれているかもしれません。何はともあれこの記事が「響け!ユーフォニアム」をさらに深く楽しむための切っ掛けになると良いなと思います。

 

 それでは、また。

 


【追記】
 本作の終盤に久美子があすかから「響け!ユーフォニアム」のノートを受け取るシーンがありますが、このシーンが今回取り上げたシーンと対になっている事は言うに及ばないと思います。しかしこのシーンでは、カメラがイマジナリーラインを超える事は一切ありません。ダッチ・アングルも使われてはいますが、使い方が異なる――2人の優勢・劣勢という対比軸では使われてないように思います。ここは2人が会話の主導権を取り合うシーンではないので、当然、カメラワークも変わってくるという事でしょう。本記事ではシーン単体を掘り下げましたが、このようにシーン同士の対比で見るのも楽しいですね。

 


【番外編】
 本記事では、久美子が「だったら何だって言うんですか!?」と振り返る直前に記憶がフラッシュバックするカットについて言及を避けていますが、これはカメラワークにフォーカスを当てた本記事の主旨から外れるトピックだと思ったからです。ただ番外編という形でなら触れてもいいだろう、という事で最後にこのカットの所感を述べて終わりたいと思います。

 

「みんな、あすか先輩に出て欲しいと言っています。」と自分ではなく"みんな"を盾に説得を試みる久美子に対して「みんなって誰?」と問い質すあすか。「気になって近付くくせに、傷付くのも傷付けるのも怖いからなあなあにして、安全な場所から見守る。そんな人間に相手が本音を見せてくれてると思う?」その言葉に衝撃を受けつつ、あすか先輩を引き止める言葉を探す、そのために久美子の記憶がフラッシュバックします。

 

 フラッシュバックの一番最初に出てきた人物は麗奈。久美子にとっては自分に本音を晒してくれているという意味で最も信頼できる人ですね。そういう意味で最初に彼女が出てきた事は納得できます。そんな麗奈の「あの先輩とてもそんな風には見えないけど。(何方かというと自分が吹ければいい、みたいな感じだったし。)」という一言を想起した背景には、先輩の本心を知りたいと思う気持ち、あるいは「自分のために吹きたい」というモチベーションに対して賛同する気持ちが在るように感じました。何故なら、この回想の直後のカットでもダッチ・アングルが使われていて、日向側が左下、日陰側が右上になる構図で傾斜しているからです。

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 次に夏紀先輩。彼女の「今この部にとって一番良いのは……(あすか先輩が戻ってくる事)」という言葉は、結論こそ真逆ですが、部にとっての"ベスト"を語るあすかの言葉と本質的には一致しています。そして何方も本心かどうか、久美子は自信が持てない。ここでもダッチ・アングルが使われていますが、さっきとは逆方向――日陰側が左下、日向側が右上です。そして画角を微妙に揺らす、本作で散見されるいつもの演出。これは上記の夏紀先輩やあすかの発言に対する、久美子の反感と不安を表現しているように感じます。

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 そして次の回想はTVシリーズ2期と劇場版とで別のキャラクターが登場します。TVシリーズ2期は希とみぞれ。劇場版では、希とみぞれのエピソードがカットされた影響で、緑が回想に出てきます。

 私見ですが、ここは緑の回想を挿む方が前後の流れが分かりやすいと感じましたので、まずは劇場版の方から触れたいと思います。「緑は飛鳥先輩と一緒に部活やりたいです!」1期の頃から彼女は少しマイペースな所があるなとは思っていましたが、その自分本位な所に今回は救われました。彼女に関しては本音かどうかではなく、発言の内容が全てだと思います。誰かの本心を探るのではなく、部にとっての損益を推し量るのでもなく、ただ自分の望みを朗々と語る緑。自分本位で何が悪い。そこでアップで映される久美子の表情。見開かれた眼が緑への賛同を、揺らぐ瞳が彼女の迷いを物語っていると感じました。そして、次のお姉ちゃんの回想を経て”迷い”をかなぐり捨てる、という流れで展開していきます。

 一方でTVシリーズ2期の方では、みぞれの「伝えてほしい。あすか先輩に。待っていますって。」という言葉、すなわち、先輩2人から託されたという事実を想起します。ここで久美子は「先輩から頼まれたのだから何か言わないといけない」と焦燥に駆られていたのかもしれないし、あるいは「誰かに頼まれたから説得しているのか?」と腑に落ちなかったのかもしれない。後者なら後の展開――”みんな”ではなく自分の本音をあすかに叩き付ける――にも明確に繋がっているのですが、久美子の表情は周囲の期待にどう応えたらいいか分からないと困惑しているように見えます。

 このように希とみぞれの回想は前後の繋がりが些か不明瞭なので劇場版の方が分かりやすいと感じました。とはいえ、劇場版とTVシリーズ2期では回想の役割が違うのかなとも考えています。劇場版ではそれぞれの回想で台詞が独立して再生されていたのに対し、TVシリーズ2期では最初の麗奈の台詞が最後まで再生されていたように台詞同士が重なって聞こえていました。つまり劇場版では回想と回想の繋がり・流れを明示するよう意識していたのに対し、TVシリーズ2期では久美子の思考が混線していく様子を優先的に見せたかったのではないかと思います。

 そして最後にお姉ちゃん。両親の期待に応えて特別な存在になるために、自分の子供じみた本音と向き合わなかった人。後悔。その後ろ姿がどうしようもなくあすか先輩と重なる。そこでコンロの火が点火する。最後の最後に久美子を衝き動かした情動はただの怒りだった、という事だと思います。それはガスコンロに火が点くのと同じぐらい当たり前の感情。”みんな”の本音と損益を測りかねた挙句、天秤を丸ごとぶん投げて「だったら何だって言うんですか!?」と自分自身の本心を吐き出す。暴露する。この結論に真っ先に繋がるのは、やはり緑の台詞だと思います。しかし、周囲に翻弄されて混濁した久美子の意識が、お姉ちゃんの回想を経て1つの決断に収斂する。そのカタルシスも捨てがたい。どちらの構成もアリだと私は感じました。

 

 「"みんな"は本音を言ってくれていたのか?」からスタートして"みんな"の発言を振り返った結果、何て事はない、大事なのは"みんな"ではなく自分自身の本音だ、という結論を導き出す。それを言葉ではなく「久美子の手がガスコンロに火を点ける」という描写で無言のままに表現する。その説得力。久美子から出てくる台詞は確かに「だったら何だって言うんですか!?」以外にあり得ないと納得できる。1つ1つの回想の内容や順番、回想と回想の間に挟まれる現実の久美子の表情、カメラワーク、その全てに意味がある。都合10秒程度の短いカットですが、非常に濃密で計算され尽くされている10秒間であると感じました。

*1:尚、2期の方は残念ながら都合が合わず……。口惜しい。

【ゾンビランドサガ】星川リリィは何故まさおだったんだろうという話。

ゾンビランドサガのネタバレあり】

 

「星川リリィは豪正雄である必要があったのか」


 ゾンビランドサガ8話が放映されたとき、このような疑問に頭を悩ませた視聴者は少なくないだろう。私もその1人だ。話にインパクトを与える役割があったのは言うに及ばないが、果たして本当にそれだけなのだろうか。そんな疑念を抱きつつも、如何せん私はトランスジェンダーや男の娘という文化に明るくないため、なかなか自分の考えを形にすることができなかった。そして最終話の視聴を終えた今、性別云云に留まらずリリィの境遇や心情から改めて8話を読み直すことで、私は自分なりの答えを得た。本記事ではそれを話していきたい。まずは8話に対する私の解釈を説明する。


 星川リリィは2つの問題を抱えていた。


 1つ目の問題。それは「パピィに本当の自分を見て貰えなかった」ということだ。パピィは「テレビの中にいる自慢の息子」に目を向けるあまり「パピィの隣りにいる”本当のリリィ”」を蔑ろにしてしまった。大好きなパピィが自分を愛してくれない。大好きなパピィが自分の悩みと向き合ってくれない。この問題を解決するための必要条件は「生きる」ことだ。パピィが自分と向き合ってくれるまで、リリィは生き続けなければならなかった。


 2つ目の問題。それは「成長してパピィみたいになるのはイヤだ」ということだ。これに関しては、パピィが自分を見てくれれば解決、とはいかない。むしろパピィの存在自体がリリィの苦痛に繫がったとも言える。勿論これもパピィと共に乗り越えていくべき問題だったのかもしれない。しかし、それより手っ取り早くて身も蓋もない解決方法がある。「死ぬ」ことだ。そう、死ぬことで、星川リリィは永遠の12歳になれる。もう脛毛も髭も生えることはない。

 

 リリィはゾンビになることで後者の問題を解決してしまった。だから前者は永遠に解決できない。生と死の断絶がそれを許さない。ただ死んで無に還ったのではなくゾンビとして生まれ変わった以上、リリィはその事実を受け止めなくてはならない。ドライで大人びた一面のあるリリィの事だから、覚悟は決めていたのだろう。それは「パピィのことを忘れようとしていたの。」「ゾンビは成長しないんだもん。もう怖いものなしだよ。」「さくらちゃんみたいに何も覚えてない方がよかったのかな。」といった台詞からも伺える。死んだことで2つ目の問題を解決できた。その事実だけに目を向けて満足しておく。リリィらしいスマートな立ち回りだ。

 

 フランシュシュが嬉野を観光したとき、リリィは独り、豊玉姫神社で祈りを捧げていた。前後の流れを考えると祈りの内容は「今の綺麗な肌のままでいられますように」であると考えるのが妥当だろう。リリィの死因にも繋がる。しかし一方で豊玉姫様は子孫繁栄の神でもあると聞く。もしかするとリリィは「パピィが別の人と再婚して新しく子宝を授かって幸せに暮らしていけますように」と祈っていたのかもしれない。そうしてパピィが自分のことを忘れてくれればそれでいい。そして願わくば、自分もパピィを忘れられたら。そんなことを願っていたのかもしれない。

 

 それでもパピィは目の前に現れてしまった。パピィが自分をどれだけ想っていたかを知ってしまった。「自分もパピィの気持ちと向き合って来なかった」という事実を突きつけられた。もしパピィと共に生きて、自分から歩み寄っていれば、1つ目の問題なんて簡単に解決したかもしれない。そんなifから目を逸らせなくなった。

 

 この苦しみから解放されるためには、今こそ1つ目の問題を解決するしかない。パピィに今度こそ”本当のリリィ”を見てもらいたい。そして”本当のパピィ”と向き合えるようになったよと伝えたい。でも全ては後の祭りだ。「仕方ないよ。リリィ、ゾンビだし。」と項垂れるリリィに、それでも水野愛と紺野純子は答えを示した。*1

 

 それを可能にする存在が「アイドル」なんだよ、と。

 

 リリィはアイドルとして”本当のリリィ”をパピィの前で表現する。パピィは眼の前の偶像にリリィを重ねることで、リリィの想いを知ることができる。無論それは単なる虚像だ。本当は実像だけれど、パピィから見れば6号はリリィではないのだから、虚像でしかない。だから2人とも救われることはない。リリィが歌ったように”この胸に空いた隙間は埋まらない”。それでも痛みを癒やすことはできる。”愛は変わらないよ いつまでも”と伝えることはできる。こうして星川リリィはアイドルとして見事に自分と家族を苦痛から解放せしめたのだ。

 

 さて、8話に対する私の解釈を一通り話したところで、本題に戻ろう。

 

 星川リリィは豪正雄である必要はあったのか。

 

 リリィが抱える問題を一般化すると、1つ目は「周囲の人間が自分の気持ちと向き合ってくれない」という寂寥であり、2つ目は「時間の経過に伴い自分の価値が下がるかもしれない」という恐怖である。本来、これらは別々の問題であり、必ずしも干渉し合う関係にあるとは言えない。また、当然ながら、何方も性別云云に関係なく発生しうる悩みである。それをゾンビランドサガでは、性別関連の設定を主軸にして、2つの問題が絡み合う構図にすることで「リリィが生と死のコンフリクトを抱える」という状況を造り上げたのだと私は考える。

 

 もっと言うと、性別関連の設定が無ければ、家族愛だけをテーマにしていたならば、星川リリィはゾンビになった時点で苦悩していた筈だ。それこそ水野愛や紺野純子と同じように。だが彼女らと決定的に違う点は、リリィにとって「死」は必ずしもデメリットだけではなかったという点である。リリィはゾンビになることで、いつかパピィみたいな容姿になる、というリスクから逃れられた。そうしたメリットがあったからこそ、リリィはソレだけに目を向けることで、家族との断絶という哀しみから目を逸らすことが出来たのだ。それは言ってしまえばパピィへの裏切りである。故に実際にパピィと再開してしまったとき、その裏切りは大いなる後悔を伴って、リリィ自身へと跳ね返ってきた。そんな逃げ場のない心の軋轢を癒やすにはどうすればいいか。その問に対してフランシュシュは「アイドル」というアンサーを打ち出した。こうした一連の流れを以って、ゾンビランドサガ8話は「偶像」を肯定的に描いて魅せたのだ。

 

 だから星川リリィが豪正男であることには、少なくとも「意味」はあったのだ。一方で、本当に性別関連の設定を盛り込む「必要」があったのか、と問われると明朗にYesと答えることはできない。そして、その曖昧な立ち位置こそが、星川リリィというキャラクターを描く上で一役買っているのではないか、と私は結論付けた。少しややこしい話になるが、最後にそれを説明して本記事を終わりたい。

 

 私はこれまで性別云云の設定が物語の根幹にあるという話をしてきた。だが、本当の根幹は”生と死のコンフリクト”であって、性別の件は言ってしまえば、その状況を造り出すための舞台装置にすぎない。ゾンビランドサガ8話という物語の中心はあくまで親子愛であり、性別云云は枝葉末節でしかない。もちろん無くてはならない存在だが、代替可能なガジェットでもあるという事だ。そして、その不思議な立ち位置こそが作劇のミソなのだと私は考えている。

 

 この絶妙な立ち位置だからこそ、大方の視聴者もフランシュシュのメンバーも最初は「リリィがまさおである」という事実に驚きはすれど、話が進むにつれて、いつの間にか意識しなくなっていったのだろう。12話を見終わった段階で一体どれだけの視聴者がリリィ=まさお問題を気にかけていただろうか。要するに、そういう事である。性別なんてどうでもいい。”本当のリリィ”を見守ればいい。そうした方向へ視聴者の意識を誘導した作劇により、メタ視点においても星川リリィの願いは叶えられたのである。それでいて性別云云の設定が無ければ、リリィの苦悩は水野愛や紺野純子と同質のものになってしまうので”生と死のコンフリクト゛は発生することなく、物語は根本から崩壊する。この絶妙なバランス感覚こそがゾンビランドサガ8話の魅力なのだろう。少なくとも私はそう受け取った。

 

 以上が「星川リリィは豪正雄である必要はあったのか」に対する私の見解である。

 

あとがき

 次の記事では「なぜ源さくらが星川リリィに寄り添ったのか」という話をします。本当は本記事のオマケとして書き始めたのですが、思ったより長くなってしまったので別々の記事にしました。そう遠くないうちに投稿する予定なので、よかったら読んでください。

 

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 よかったら此方も見てね。

 

 

 

私信

> Cunliffeさん
> 12話を見た今の感想が読みたい。

 コメントありがとうございます。まだ12話の源さくらを咀嚼できた気がしないんですよね。考えが纏まったら書くと思います。

*1:「想いに応えろ」

【ゾンビランドサガ】源さくらは凡人だけど凡人じゃないという話。

ゾンビランドサガ11話のネタバレあり】


 ゾンビランドサガ11話の感想を見ていると、多くの方が源さくらを「凡人の代表」「現代病理の風刺」と評しているのを目にする。その度にこう、的外れではないが正鵠を射るとも言えないような、何処かモヤっとした気分になる。私の中では、寧ろ源さくらの生き様はフランシュシュの中で最も常軌を逸していて、とても我々のような凡人を代表した存在とは思えない。だけど一方で彼女が凡人と言われる理由にも心当たりがあるのだ。本記事ではそんな話をつらつらと綴っていく。

 

 源さくらはもとより「努力の天才」だった。ガタリンピックで明示されたように彼女は基本的に鈍臭い。6話で純子の帽子を取り損ねた件に鑑みても、身体能力は平均以下と言わざるを得ない。そんな彼女が努力だけで劇の主役を勝ち取り、努力だけでリレー選抜を勝ち抜き、学年1位のタイムまで叩き出した。これだけで既に常人離れした実績にも見える。それでも畢竟、努力の「程度」が並外れている、という話でしかない。積み重ねた努力の先に自己実現という報酬がある以上、彼女の「生き様」は至極真っ当と言える。少なくともこの時期までは。


 彼女の”生き様”は、2年目のリレー選抜から徐々に可怪しくなってくる。それまでの人生で、人より努力しながらも不運に苛まれ、自己実現に至らなかった源さくら。そんな彼女の内には、いつしか「リベンジ」という明確な目的が生まれた。何に対するリベンジか。言うまでもなく「宿命」だ。この頃から彼女の敵は、周囲の人間から、自分を戒める呪いへと変化していった。大事なときに限って自分を見放した神様に一矢報いる。ただそれだけのために、彼女は周囲の誰よりも努力を積み重ねた。報酬はない。自己実現など眼中にない。ただ目的を果たすために苦行に身を委ねる。その在り方が私には常軌を逸しているとしか思えなかった。


 それでも”リベンジ”を果たせなかったさくらは遂に決定的な狂気へと至る。中学1年の夏、齢13にして、彼女は”不運な人生を払拭するため”だけに中学時代という青春を丸ごと投げ捨てることを決意し、実行したのだ。


 一応、志望校に何かしら思い入れが在ったのかもしれない、という可能性も考えたが、恐らくその線はないだろう。志望校のパンフレットを読む源さくらの表情は何処か浮かない顔で、期待や憧憬といった感情は見受けられないからだ。少なくとも水野愛にときめいた瞬間のあの表情には遠く及ばない。むしろ「どうせ今回も報われないんだろうな」という諦念を堪えた、シニカルな笑みを浮かべているように見える。もしそうだとしたら、それはそれで恐ろしい話だ。報酬の有無どころの話ではない。目的を達成できない未来を予想しながら、それでも神の裁きに抗うためだけに源さくらの全存在を擲った、ということになるのだから。


 小学5年から中学3年にかけて、さくらは同級生から距離を取られるようになった。当然の結果だろう。なにせ本人が周囲の人間に目を向けていない。学年1位やA判定という実績が「神と闘うための下準備」でしかないのだから。この時点でさくらは、人と人の競争社会から逸脱し、たった独りで神話を繰り広げていた。そら近寄りがたいし理解もできまい。現に小学時代からさくらの近くにいた腐れ縁の松尾ちゃんですら、高校時代――つまりさくらが神との闘いを放棄してから、ようやく話しかけられるようになった。いや、勿論、それ以前にも話しかける場面は在ったのかもしれない。だが、A判定をとって喜ぶ中学時代のさくらに話しかけないシーンと、高校時代の無気力なさくらに馴れ馴れしく話しかけるシーンとで、明らかに2人の距離感が違うのは事実だ。

 

 そうしてようやく話しかけてきた松尾さんの言葉が「スポーツとか身体を動かすこと得意だったやん」なのである。もう何一つ理解していない。”持ってない”以前の問題だ。"得意"ではなく、得意と言われるまで必死に努力を積み重ねた、という絡繰りが在ることすら理解していないのだから。


 そして彼女の在り方を理解できないのは、フランシュシュのメンバーも変わらない。(徐福が絡むゆうぎりと詳細不明のたえに関しては断言できないが)なぜなら彼女らは皆、人との争いのなかで自己実現を達成し、伝説を創り上げたにすぎないからだ。それでも常人離れした実績であることは言うに及ばないが、源さくらの生き様はまた別次元だ。上や下ではなく、ねじれの位置にある。だから当然の帰結として彼女達が源さくらの神話を理解できる道理が無い。もちろん彼女達だって、理不尽な不運にぶつかり、それを自力で乗り越えてきた経験の1つや2つは在るだろう。だが、さくらの場合は、不運そのものが敵なのだ。だから喩えさくらが伝説を遺す可能性があったとしても彼女達とは順序が違う。神と闘う過程で結果的に伝説的な実績を上げる可能性はあっても、彼女達のように自己実現を伝説へと昇華させることはなかっただろう。


 源さくらはどうしようもなく孤独だ。だから巽幸太郎も彼女を無理に理解しようとはしなかった。一度、突き放したのも、俺はお前を理解するつもりなんてない、という意思表示だろう。その上で彼は「俺が持っとるんじゃい!」「だから!俺は!お前を絶対に見捨ててやらんッッ!」と叫ぶ。あの瞬間、私は初めて巽幸太郎の素顔を見たように感じた。普段の喧しい巽Pでもなければ、シリアスムードの静かで重々しい巽Pでもない。何故ならどちらも彼が意識的に創った「キャラクター」だから。でも、さくらへの叫びはきっと彼の本音だ。飾りようのない直球を満身の力でド真ん中に放り込んだのだ。源さくらの神話を理解することはできない。純子のときみたいに土足で上がり込むこともできない。だが、それがどうした。理解なんかしなくとも、その手を掴むことはできる。幾ら神がお前を見捨てようとも、俺はお前を見捨ててやらん!何故なら俺がデカくてスゴいもんを持っているからだ!!


 そんなストーカー紛いの自分勝手な言葉に、それでも彼女は何も言い返すことができなかった。分かっていたからだろう。源さくらの原点は決して宿命や神話などではないという事を。それらは後付の妄執でしかない。だから彼女はきっと自分の闘いへの理解なんて求めていない。


 ならば彼女は何を求めていたのか。それはきっと原点への回帰だ。もとより彼女は「努力の天才」だった。その先には自己実現という報酬があった。巽幸太郎の言葉は、その原点に源さくらを引き戻したのだろう。そして生前、巽幸太郎と同じ役回りを果たしたのが、他でもない水野愛だったのだ。


 高校時代に遡る。青春の全てを犠牲にした神への挑戦は失敗に終わった。さくらは全てを喪って生ける屍と化したが、同時に妄執からも解放された。有り体に言えば、肩の力が抜けた。このタイミングだからこそ、水野愛との出会いが響いたのだろうと思う。

 

 努力や失敗を踏み越えて自己実現を成し遂げた水野愛に、さくらは自分が忘れていた輝きを見出したのだろう。かつて彼女が目指していたもの。誰よりも努力を積み重ねた理由。「ああ。私はこうなりたかったんだ。」と、事ここに至ってようやく、自分がとんでもない回り道をしていたことに気付いた。「また1から再出発しよう。」そう思えたから彼女は、アイアンフリルのファンになって終わりではなく、アイドルになる自分を夢見たのだ。神と闘うためではなく、自己実現を成し遂げるために。極めて真っ当な形で新たな一歩を踏み出そうとした。


 だが神は容赦なく彼女を見捨てた。もしかすると水野愛との邂逅も悪趣味な図らいでしかなかったのかもしれない。あれはタイミングも含めて正に源さくらの人生で最初で最後の幸運だ。当然、さくらは飢えた獣のように食い付く。そうして高々と振り上げたグラスを、神は勢いよく地面に投げ捨てた。


 そうして彼女は、今度こそ理解したのだろう。源さくらの”努力”とは、グラスの高さを稼ぐだけの自殺行為に他ならない。生き様など関係ない。神話の登場人物として生きようが、真っ当に自己実現を目指して生きようが、自分の行き着く先はどうあっても砕け散ったグラスの破片でしかない。その諦念は「幾らあの娘が本物の水野愛だとしても、私がアイドルになんてなれるわけなか。」という台詞に詰まっている。


 そして源さくらが巷で「凡人」と言われる所以も恐らくここにある。どんな経緯があろうと、何も知らない人からすれば、敗者は敗者でしかない。何も成し得なかった。その一点で落伍者の烙印を押されてしまう。*1そして何よりさくらは自分自身に、そのような評価を下しているのだ。だから彼女は巽幸太郎の言葉を肯定しなかったのだろう。たしかに何も言い返せなかったが、それでも挑むように、問い質すように彼を睨み付けた。

 お前も私を敗者にしたいのか、と。


 だが、私から見れば、彼女は凡人ではない。いや凡人だけど。5年も回り道してようやく自分の夢の在り処に気付くほど鈍臭くて、どんなに無気力に苛まれてもテレビに出てきたアイドルに影響されてやる気を出しちゃうほどチョロい凡人だけれど、少なくとも”敗者”ではない。


 何故なら彼女はゾンビだからだ。もう既に神の裁きを覆してしまった。いま彼女が動いていること、言葉を紡いでいること、アイドルとして活躍していることこそが、神との闘いに勝利した証左なのだ。というか、もとより彼女は一度も負けていない。何故なら彼女はチョロいからだ。失意の底に居ますみたいな顔をしておきながら「アイドルとしてのお前を待つ者がいる」と言われただけで、ちょっと目を輝かせてしまうほどチョロいからだ。チョロいとは、言い換えると、どんな絶望のなかでも一片の希望を手放さない、ということだ。彼女が「努力の天才」たりえた所以もきっとそこに在る。自分は鈍臭いけど努力すればもしかしたら誰よりも上に行けるかもしれない。そんな楽観主義が彼女を「努力の天才」にしたのではないか。そしてチョロい人を本気で絶望させるのは至難の業だ。神でさえ命を奪わなければその歩みを止められないほどに。

 

 そして命を奪われたにも関わらず、それでも源さくらは歩みを止めなかった。

 寧ろ他の誰よりも早く、前に進むことを決断した。


 もういいだろう。私の本音を記す。源さくらの死は、諦めたまま無為に生きて、その当然の帰結として伝説を遺せなかった凡人の末路ではない。断じてない。こいつのチョロさを舐めて貰っては困る。彼女の死は、最期まで自分の宿命に挑みながらも、圧倒的な不運の前に絶筆を余儀なくされた未完の伝説だ。


 その続きを記すためには神の裁きすら覆すしかない。

 つまり、ゾンビになった今だからこそ、さくらの自己実現はきっと成就する。


 それでも神が見捨てると言うなら、巽幸太郎が、フランシュシュが、作中のフランシュシュのファンが、そしてアニメ「ゾンビランドサガ」のファンが、源さくらを見捨ててやらなければいい。天に牙を剥いて「何が神の冒涜か!裁きなどさせない!」と叫ぶ源さくらの闘いを皆で見守ってやればいい。


 そう、源さくらがゾンビとして生まれ変わり、その上でアイドルになった事には、ちゃんと意味があったのだ。(NO ZOMBIE NO IDOL とはよく言ったものだと思う。)

 

 だから最終話で巽Pには、源さくらを応援する全存在を代表してこう言って欲しい。

 


「伝説を創ってこい、源さくら。

 その名が天に焼かれようとも――俺がお前を見ている。」

 

 

*1:そうした構造を彼らは「現代社会の病理の風刺」と言ったのかもしれない。

アニメ「メイドインアビス」 雑感

 メイドインアビス見ました。

 

 ネタバレ感想です。思いついた事を書き殴る感じなので文章構成は気にしないで。

 

 非常に完成度の高い王道冒険活劇でした。前後の描写がしっかり噛み合っていて互いにエクスキューズとして機能しつつ、それでいて予定調和から半歩だけ逸脱する絶妙な裏切り。情念や涙腺に訴えられるというよりは冷徹で論理的な展開に舌を巻くことの多い作品だった。シナリオだけでなく背景美術や音楽、SEなどの要素が過不足無く主張しあっていてアニメとしても魅力たっぷり。しかし個人的にはキャラの独り言やモノローグが多くて気になったけど、さりとて”言外の語り”的な表現を完全に放棄していた訳でもなさそう。ミーティの殺害を受諾したレグにナナチが左手を置いてやるシーンなんかは分かり易い例だよね。だから恐らく沈黙の美学を理解しつつ敢えて視聴者側に寄せるために説明的な字句を増やしたのだろうと私は推測した。それはそれで1つのスタイルとして(好き嫌いとは別に)尊重したいと思う。

 

 正直オーゼン編までは丁寧な作品だなと思いつつも予定調和の向きが強くて少々冷めた心持ちで見ていた。例えばオーゼンみたいなキャラが実は優しい人でした云々はハイコンテクストと言って差し支えない展開だから。他の展開も私の予想を遥かに超えるようなものは見当たらなかった。そんな訳でこの作品は堅実な造りを売りにしているのかななどと勝手に思い込んでいたのだが、そんな風に高を括っていたら直後の第三層、第四層への繋がりで一気に引き込まれた。

 

 リコとレグの繋がりを客観視点(オーゼン編)→主観視点(第三層)の二段階で描きつつ、そこまで丁寧に積み上げたモノを一瞬で完膚無きまでに粉砕する(第四層)という歪み1つない完璧な流れ。そしてコレはかなり悪辣な(褒め言葉)構成なんじゃないかと思う。最初の客観視点は視聴者側に近い言及だ。それを主観視点に繋げることはすなわち、視聴者をリコとレグの方に近付ける誘導レールのような役割を果たしているのではないかと思う。そうしてホイホイ引き込まれた哀れな視聴者の鼻っ柱に第四層での惨劇を叩き付けるという訳だ。理性的にも感情的にも逃げ場を潰されて、真正面から2人の痛みと向き合えるようお膳立てされている。

 

 そこで言及せねばならないのはやはり骨折の件。
 私は今迄の人生で何度か骨折を経験している。そのせいで骨折の描写には一家言あって例えば「折れてるのに意思の力で何ともなさそうな表情を保っている」みたいなパターンは余程ハッキリしたエクスキューズでもない限り個人的には認められない。そんな私から見てもアビスの骨折ダメージ描写は非常にしっくり来る。骨折シーンの白眉と言っても過言じゃないと思う。
 片足が捻れ折れたときの体験談を話したい。まず時間が止まる。目の前の風景が異常にゆっくりと流れる。そんな奇妙な一時を最後に記憶が途切れる。そして自分の叫び声で我に返る。あの感覚。あれを客観的に見たらアビス10話の骨折描写になるんだろうなと感じた。ちゃんと折れる瞬間にはリコの時間が止まるような演出で、ワンテンポ置いてから悲鳴を上げる。共生キノコを抜くときには時間が止まるような演出が無かったことも併せて見て頂きたい。綺麗な対比になっている。それだけ骨折シーンを作り込んでいるということ。(更には表情や白笛を握り締める右手から意識を完全に手放したわけではない事も分かる。この辺は上述の「自分の声で強制的に起こされる」感じを表現しているのかリコの意志の強さを表現しているのか判断が付かないけれど。)

 

 このやたらと気合の入った骨折描写に何の意味があるのか。それは骨折という概念が第四層のシナリオの骨格を象徴しているからだと思う。
 今迄積み上げた2人の絆は惨劇によってリコの腕ごとズタズタにされた訳だけど、それがナナチとの絡みを経て更に強固な繋がりを生むという流れは「折れた骨がもう一度繋がることで元より強度が増す」という骨折の概念と完全にリンクしている。
 そして骨折は時として重大な行動障害を残すこともある。リコ達も今回の件で何もかも元通りになった訳ではない。消滅したミーティ。動かない左腕。喪ったモノも色々ある。その象徴がリコの左腕の傷だ。そしてリコはレグとの絆の証として左腕の傷を受け入れた。
 治癒可能であるが故に可逆的でありながら、時として強化あるいは後遺症という形で不可逆の側面を見せる「骨折」という概念。言われてみれば人と人の繋がりの変化を描く上でこれほど象徴に相応しいものもない気がする。過言かな。まぁともかく、そうした構造的な視座でも、この作品は骨折描写の白眉と言ってよいと思う。

 

 さて骨折の話は一段落したので余談。
 個人的にボンドルドさんの在り方を特筆したい。五層で子供たちを使って実験をしている白笛のことです。(現時点での描写を見る限りでは)彼の研究者としてのスタンスはリアルの動物実験者に近いと個人的に思う。被験体を本心から可愛らしいと思いつつ新しい可能性のためなら特に悪気なく消費してしまえる、この界隈では本当にありふれた狂気の沙汰。だから彼のスタンスには妙な納得感というか親近感を覚えたりもする。私もその手の作業に従事していたことがあるから。……と言うと自称サイコパス系のイキリに聞こえるかもしれないけど。
 ただ人間性喪失ミーティへの虐待は「被験体をなるべく苦しませない」という動物実験倫理の大原則に反しているので、やっぱり単なるサイコパスなのかもしれないですね……。でも検証のために必要とあらば痛みを与えることも辞さないのが動物実験者だから、そういう意味ではコレもリアルに近いスタンスと見るべきかもしれない。問題は人の子供を実験動物扱いしている点だけど、孤児院で家畜以下の生活を強いられる子供達を使っているので、倫理観が致命的に壊れていると断ずる事も難しい。
 つまり何が言いたいかと言うと、非常に厄介な人ですね!ということだ。リコにとって。そして何より視聴者にとって。バイキンマンみたいな分かり易いサンドバッグでもない。思想の狂いを指摘してスッキリすることも出来ない。現実にある範囲の狂気を誠実に描写している感じでこれまた逃げ場がない。これは今後の第五層での話が楽しみになってきますね……。

 

閑話休題

 さて現時点で来歴がハッキリしているキャラはリコとナナチの2人なんだけど、その2人とも生い立ちと人格形成がちゃんと噛み合っていて面白いなと思う。
 リコの好奇心旺盛な質がライザの放任主義により育まれたことは言うに及ばないので割愛。注目したいのはナナチのちょっと不遜気味なところで、あれは抑圧され除け者にされた過去からの反転で自分自身を誇張する癖が付いた結果なのかなと思っている。
 第五層の子どもたちの待機部屋でミーティに本を紹介したときにナナチは「他のやつは文字が読めないから本は拾わない」みたいな発言をしていた。あの発言もモチベーションは上記の誇張癖なんじゃないかなと思う。ミーティという格好のイキリ対象が目の前に居たことも原因の1つかもしれない。
 ナナチのそういう所、というのは、本質的に自己表現が苦手な所が私は愛おしく思う。陽のコミュ障と言うのかな。ミーティはナナチのそんな性格をどう捉えていたのだろうか。今後の話でミーティ側から見たナナチへの印象も描かれると面白いかもしれない。期待したいところだ。

 

 さて。話は変わってミーティについて。
 最初はライザの成れ果てと予想した人も多かったのではないだろうか。やたらとリコに執着するミーティ。空席のライザの墓。このタイミングで想起されたレグの記憶。これはもうラストダイブで人間性を喪失したライザの成れ果てとミスリードさせようとしているようにしか思えなかった。私はその可能性に慄きつつ、いや、それなら11話冒頭の想起カットで出てきた女の子は誰なのか、おそらく彼女がミーティだろうと考えを改めた。しかし、まさかアフターケア(リコの夢に出てきたという話)まで詰めてくるとは読めなかった。あれも本当に巧い描写だと思ったので、これについて色々書き記して記事を終わりたいと思う。


 まずミーティがリコの苦しみを理解していたということは、彼女にも意識が残っていた可能性を示唆していて、それが意味する所は彼女がしっかりとナナチの慟哭を受け取っていたのかもしれないということである。ミーティの叫びや涙は単なる"反応"ではなかったのかもしれない。それがナナチに伝わることでナナチもミーティも少しは救われただろう。
 そして裏を返せばここで救いがあるからこそ火葬砲シーンでは何の奇跡的演出(例:光に包まれた人間ミーティの幻覚が「ありがとう……」などと言いながら消えていく割とありがちなパターン)もなく呆気ない消滅によって深い痛みを描くことが出来たのだろうと思う。
 更に「肉体の消滅によって魂が解放される」というナナチの見立の正しさがリコの「ミーティは振り返らず”憧れ”を湛えた顔のまま去っていった」(=苦しみから解放されて在るべき魂の形に戻った?)という台詞から証明されるのも巧い。そこでミーティの意思を受け取ることでリコと同じくナナチもまたアビスの底への憧れを思い出したのかもしれない。だからこそ彼女はリコ達への同行を受け入れたのだろう。

 

 本日はここまで。

 また次の記事で。

がっこうぐらし!アニメ版の由紀が池沼超能力者にされたメリットとは

※この記事は原作既読者向けの記事です。読者が原作の描写を知っていることを前提として書いています。また、原作4巻、アニメ8話までのネタバレが含まれています。

 

 アニメ版の由紀がいかに池沼、或いは超能力者として描かれていて、そのデメリットに見合うだけのメリットがどこにあるのか、私は1人の原作ファンとして考えた。7話のとある描写を起点に、6話以前に遡ってキャラの言動を見極め、8話から今後の展望を読み取る。大まかな流れはこんな感じだ。

 前置きはここまで、早速本題に入ろう。

 7話では1巻第6話「おてがみ」が重点的に描かれた。このエピソードはみーくんが救出された後に回されるだろうと、原作既読者の大半が予想していただろう。OPで映る手紙にみーくんが描かれているからだ。

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 まず「おてがみ」にみーくんを出した狙いを推察する。

 このエピソードは1巻ラストのお話であり、最後に2巻への引きとして謎の少女が描かれて終わる。その少女がみーくんだ。私も1巻を読んだとき「このキャラは誰だ?」と気になって、気付けば2巻以降をポチっていた。しかしアニメでは1話から既に、みーくんが学園生活部の一員として描かれている。故に、前述のような“引き”が期待できない。必然的に「おてがみ」は最後の“引き”をカットして映像化されることになる。

 すると、この話は1話完結、非常にキリの良いエピソードに変貌する。7話の最終回然とした終わり方を見れば一目瞭然だろう。このあとにシームレスで別の話を繋げるためには、また新たな“引き”を用意しなくてはならない。故に、原作の「おてがみ」にアニメオリジナルの脚色を加えて、1話丸々を1つのエピソードで完結させる作劇が余儀なくされた*1。しかしそれでは尺が足りない。そこでみーくんと学園生活部の絡みを追加したり、太郎丸と由紀の認識論について言及することで、尺を調整したのだろう。

 勿論、これは全て私の憶測でしかない。だが、原作者がシリーズ構成を担当しているだけあって、精緻な計算の上で原作が切り貼りされているのは間違いない。

 ……そう思っていたのだが、どうしても計算が狂っているとしか思えない箇所を見つけた。百聞は一見に如かず。まずは該当シーンのやり取りを抜粋する。(尚、twitterでは全体的な改変の方向について何度か呟いている。気になる方はそちらを参照されたい。)

 

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「りーさんおかわりー!」

「ごめんね由紀ちゃん。お代わりは無いのよ。」

「遠足で持ってきたの、種類重視だったからなぁ。」

 

 

 一方、原作では――

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 見ての通り、原作ではうどんを切らした理由を「購買では補充できなかったから」と説明している。ここで、原作の一番下のコマに注目してほしい。由紀がぽかんと口を開けたまま静止し、それをくるみが気遣わしげに一瞥している。このあと由紀はめぐねぇに遠出の許可を貰いに行き、それが2巻第8話の「えんそく」に繋がる。その結果、たまたま遠足先でみーくんと出会い、彼女を救出することになる。

 一方アニメでは、うどんを食すシーンを遠足の後に回したため、うどんを切らした理由が「種類重視で選んだから」に改変されている。奥歯に物が挟まったような、度し難い台詞だ。みーくんを発見する前に補充したハズなのに、4人分のうどんが用意されているのは何故だ、種類重視とはいえたった1回分しか補充しなかったのか、等々の些少な突っ込み所はさておき、ここで1つ致命的な問題が浮上する。

 それは、アニメ版では“うどんを補充する”という理由付けがなされないまま、由紀が「なんとなく」遠足に行こうと言い出したことである。この時点で由紀の遠足提案は単なる我侭でしかない。後にくるみはこれを「由紀は何故か本当にそれが必要になったとき、こういうこと(遠足や運動会など)を言い出すんだ」(第6話)と説明した。しかしアニメ版では、遠出の必要性をくるみやりーさんが唱える場面はない。ならばその必要性は、由紀本人の内なる声が示した道に他ならない。つまりアニメ版由紀は、まだ顔も知らないみーくんを救出するために遠足を提案したのである。まさか第6感か超能力で無意識にみーくんの危険を察知した、とでも言いたいのだろうか。

 原作では上述の通り、遠足がみーくんの救出に繋がったのは結果論である。由紀は「購買では買えないもの*2を調達したい」というりーさんやくるみの要望へ応えるために遠足を提案した。つまり原作の由紀は彼女なりに学園生活部に貢献しようと「頑張って」いる。妄想の世界に逃げながらも、彼女は自分にやれることを精一杯やっているのだ。これは、のちの喧嘩イベントでみーくんが導いた結論*3に、説得力を持たせるための具体例だ。

 しかしアニメ版の由紀は第6感で誰かの危険を察知する超能力者にされてしまった。言い切ってしまうが、この由紀は断じて「頑張って」などいない。彼女はくるみやりーさんに養われながら、ただ自由気侭に振舞う。その過程で第6感が発動して、たまたま部に必要なものを提案すると、くるみやりーさんはその恩恵に預かる。これを共依存と言わずして何と言う。そのくせ、由紀の第6感は何故か圭ちゃんを助けなかった。くるみの言う「必要なもの」に圭ちゃんは入っていなかったのだろうか。考えれば考えるほど杜撰な設定だが、みーくんはあっさりと受け入れてしまった。そのせいで、アニメ版のみーくんは由紀について真面目に考えていないとすら感じられる。

 現状、アニメ版の由紀は少し勘のいい池沼幼女にしか見えまい。紛うことなき足手まといだ。原作のみーくんがこの惨状を目の当たりにしたら、一弾指の迷いもなく退部を決めるに違いない。由紀のCVを担当した水瀬いのりさんは彼女を主人公*4だと言った。主人公の扱いがこれでいいのだろうか。

 畢竟、由紀が「能動的」に学園生活部へ貢献しようと頑張っていることが描かれないと、彼女の魅力は視聴者に伝わらない。そのためには、由紀本人が自分の役割を口にする場面を設けなくてはならない。そればかりは第三者が口を出せる問題ではないからだ。原作でみーくんが由紀を連れてバリケードを越えるシーンを思い出して欲しい。介入しようとしたりーさんを、くるみは制止した。第三者が介入したところで意味はないと、彼女は知っていたからだろう。

 そんな気配りのできるくるみがアニメでは、口頭でベラベラ由紀の役割を説明するという暴挙に出た。原作とは丸きり真逆の対応である。以前からくるみについては、原作と別人のような言動が散見されると思っていたが、さすがにこの描写には心底驚いた。そこまで改変して由紀を池沼超能力者に変えたメリットはどこにあるのか、私には皆目検討も付かなかった。

 そして先日、がっこうぐらし!8話が放送された。なんとその8話で早速、由紀の超能力が発揮された。該当シーンを抜粋する。

「そこはもうさっき探したハズだけれど……」

「そう思うでしょ?」

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「飾り板だったのね……」

  アニメ版由紀お得意の第6感がめぐねぇの飾り板を看破している。言うまでもなく、このシーンはアニメオリジナルだ。原作ではくるみとりーさんが、みーくんに1人でめぐねぇの戸棚を調査させる。

 アニメではみーくんが実にあっさりとくるみの説明を受け入れたため、原作より早く学園生活部との心の距離が縮まる。特にアニメ版のりーさんとみーくんはかなり親密な関係を築いている。6話で2人が握手をするシーンは、原作で由紀とみーくんが握手をするシーンのセルフオマージュだろう。この演出から私は、原作における由紀・みーくんの距離感と、アニメにおけるりーさん・みーくんの距離感はほぼ同じであると考えている。これだけ親密な相手にめぐねぇの戸棚の調査を丸投げしたら、明らかに不自然だ。故に制作陣は「りーさんとみーくんの2人で調査する」という展開を選択したのではないかと考える。

 2人で調査するには、その切欠も2人で共有しなければならない。それが第7話で出てきた「職二金」の鍵だ。鍵を隠していた以上、アニメ版のめぐねぇは相当強い意思でマニュアルを隠匿していた、ということになる。だから鍵の他に何かしらのギミックを用意していたとしても不思議ではないだろう。また、作劇の一貫性という観点で見ると、アニメ版がっこうぐらし!にはホラー要素の定番ネタ*5が多々仕込まれている。今回の飾り板もホラーゲームにありがちなギミックだ。

 この飾り板という選択は絶妙なラインだと思う。探す側にとっては見つけにくい仕掛けでありながら、めぐねぇ自身が解除するのは容易い、お手軽ギミック。マニュアルを見つけたあとのめぐねぇは精神的に追い詰められている筈なので、本当は仕掛けを考える余裕があるとは思えない*6のだが、飾り板ならギリギリ許容範囲だろう。

 そして、その程度の簡単な仕掛けならば、由紀の第6感設定を活用することで、テンポを損なうことなく、仕掛けを解除して話を前に進めることが出来る。同時に、解除する前にみーくんとりーさんが手詰まりに陥る展開を挟むことで、めぐねぇの仕掛けがきちんと機能している、つまり彼女はそれだけマニュアルを隠したかった、という無言の訴えも恙無く表現されていると感じた。

 仕掛け板の件だけでなく、遠足の提案も由紀の第6感設定が活用された例の1つだ。4話が放送されていた頃、アニメ版初見の方が「遠足へ行く意義が分からない」と言っているのを見た。至極もっともな意見である。しかし後に「由紀の第6感がみーくんの危機を救った」と説明することで、意義ではなく由紀のセンスが全てだ、という理屈が正当化される。力技ではあるが、“アニメがっこうぐらし!”という枠の中では、1本の筋を通すことに成功していると言える。

 つまり由紀の第6感設定には、一見不自然に見える作劇を「由紀が察したから」の一言で強引に押し進めることが出来る、という野蛮かつ強力なメリットがあるのだ。雑といえば雑だが、これにより作劇の選択肢が大幅に広がるのは間違いない。

 しかし、仮にこの私見が正しかったとしても、現時点*7では、このメリットが十分に――上述のデメリットを埋め合わせるほどに、活用されているとは思えない。

 全ては後の祭りだ。由紀を怠惰な超能力者にしてしまった事実は覆せない。ならばいっそ、今後の話数ではできるかぎり、由紀の超能力設定をモリモリ作劇に組み込んでいくべきだ。必然性を訴えれば、それだけメリットが加算されていく。これだけのデメリット(負債)を払いきれるとは思えないが、見事にそれを覆して欲しい。とはいえ無論、やりすぎて話がこれ以上破綻しては本末転倒だ。その辺は監督やシリーズ構成のバランス感覚と計画性が問われると思うが、さてどうだろうか。

 私は原作改変=悪と言っているわけではない。改変した結果、別物としてまともな筋の通った作品が出来上がるなら、それはそれでいい。その点、がっこうぐらし!の改変は中途半端でなく、原作の構造を抜本的に取り壊して全く新たな作品「アニメがっこうぐらし!」を作ろうとしている姿勢が見られる。だからもしかすると、残りの4話で由紀の魅力をきちんと描いてくれるかもしれない。

(いや実際、そうしないと話も進まないしな……。バットとケミカルライトで武装してシャッターの外に飛び出すシーンとかどうするの。でも、9話の水着回って嫌な予感しかしないんだよなー。くるみもりーさんも、めぐねぇのことが心配で暢気に水着で遊べるような精神状態ではない筈だが……。)

 と、とりあえず私は、1人の原作ファンとして最後まで見守るつもりだ。

*1:だからってOPのアレンジまで流すことはないと思うが。正直、あれはギャグにしか見えなかった。

*2:勿論、うどんだけではない

*3:「あの人も頑張ってました」

*4:ちなみに私は由紀のことを主人公というよりトリックスターだと思っている。

*5:或いはBGM

*6:原作では戸棚に戻して誤魔化すのが精一杯だった。

*7:8話まで

ゆゆゆの東郷さんが壁を壊せた理由

 壁の外に広がる真相を知ったとき、東郷美森は四国全体を巻き込んで無理心中を図った。その背景には友奈への愛情だけでなく、世界観や状況の設定が深く関わっていると私は考えている。彼女は、四国を滅ぼすことで人が大量に死ぬという状況を――喩え理解していたとしても――「実感」できる環境にいなかったのではないか。その論拠を2つ挙げて説明したい。

 まず1つ目はゆゆゆ時空における四国の脆弱性である。
 本作品における四国は「壁を壊して神樹を爆撃する」という作業を完遂するだけで滅んでしまう。人々の脳髄を撃ち抜いて惨殺したり、極太の砲塔で磨り潰してミンチにしたりする必要もない。四国滅亡の過程で人々の死体を直視する心配がないのである。東郷美森は自分の行為が死体の山に繋がることを理解していても、実感する機会がない。殺人の手応えを実感することなく、人々を虐殺することが出来る状況そのものが凶行への足掛かりとなったと推察する。

 2つめは、神樹によるモラル統制である。
 ゆゆゆ時空では神樹の影響でモラルの高い社会を形成しているという設定がある。こうした社会を維持するための施策として、所謂グロ画像が市民の目に入らないように規制している可能性が考えられる。そのっちの手記が検閲されていることから、ゆゆゆ時空のモラルが検閲と規制によって守られているのは明白である。
 東郷美森は右翼に近い思想を持つ娘なので、大戦の経緯を知る過程で人間の残虐性とその結果に触れる機会はあったと考えられる。しかし、それを臨場的に理解するための情報(画像や動画など)は全てモラル統制の元に規制されていた。そう仮定すると、壁を壊すことで生まれるであろう死体の山を東郷美森が明確にイメージ出来なかったのも無理からぬことである。百聞は一見に如かず。そうしたイメージは実物を見ないと得られないモノだろう。

 ところで、ナチスが人々を大量に虐殺することが出来たのは、残虐な人間がいたからではなく「罪悪感なく殺せるシステム」を作ったからだ、という考察がある。東郷美森のケースも同じことかもしれない。殺人の罪悪感が軽減される状況を設定することで、彼女の凶行に自然な流れを与える。非常に興味深い仕掛けであると私は考える。