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ぽてかなの私見

「記憶は薄れるから、記録しておくんだよ」「記憶なんて生きるジャマだぜ」

シン・ゴジラ雑感

 シン・ゴジラを見たので雑感を書き殴った。構成も体裁も考えなかったので読み難い事この上ないが、興味のある人は楽しんで貰えると幸い。言うまでもないがネタバレだらけの既視聴者向けです。それでは、どうぞ。

 

・今回の東宝式戦車道について

 見る直前に私は「東宝式戦車道は棒立ちで撃つパターンが多すぎ。今回は”撃ったら即座に回避行動”という基本戦術を放棄していなければいいのだが。」といった趣旨のツイートをしたのだが、蓋を開けてみれば不満半分、満足半分といった所だろうか。相変わらず、得たいの知れない怪物を相手に側面を向け、車体を丸ごと晒しているのは気になるものの、息をするかのように行進間射撃やスラローム射撃を命中させていく10式の勇姿は感嘆に値する。全車が一斉に砲塔旋回してゴジラに砲身を指向させるシーンも、地味ながらミリタリ心を的確にくすぐる素晴らしいカットだ。さすが庵野さん、分かってらっしゃる。

 ……とはいえ今回は相手が熱線を繰り出す前に陸軍が全滅してしまった事もあって、「本気のゴジラVS10式軍団」という私の見たかった構図は残念ながら無かった。どうせ、あのゲロ火炎で丸焼きにされる事は分かっているが、それでも「戦車の縦深突破でゴジラの注意を引き、その隙に航空支援や遠距離ミサイルを命中させる。」という”なんちゃって電撃作戦”(本来のグデーリアン式と順序は逆だが)とか「10式が熱線を掻い潜って華麗にスラローム射撃を決めるシーン」を私は期待していたのだ。うーん、せめてハルダウンで待ち伏せたり建物の影に隠れたりする、ぐらいの警戒体制であって然るべきじゃないかね………。何せ相手は得たいの知れない怪物なのだから。側面を晒すのは舐めプでしかない。

 まぁ、色々と気になる点は尽きないが、いつもの単なる”やられ役”とは一味違った活躍が見られただけでも、戦車ファンとしては満足するべきなのだろう。次があるなら是非、機動戦や二重包囲を利用した少し複雑な戦術構想を期待したい。

 

・例のBGMについて
 エヴァというより元ネタの007の方に近いアレンジだったと思う。飾り気が無く、危機感を煽る事のみに特化した形。これが物語の推移によって、段々と勝利BGMのような雰囲気にアレンジされていくのが印象的だった。

 1つのBGMをマイナーチェンジしながらシーンの変化に合わせて繰り返し流す。この表現の長所はシーン毎の対比が劇伴のみで伝わりやすい事。短所は基本のメロディラインが変わらないので飽きやすく、また、このBGM自体を嫌っている人にとっては地獄でしかない事だ。(ちなみにガルパンの劇伴が好きな当方にとっては、非常に好ましい運用方針でした。シン・ゴジラほどではないが、この作品も同じメロディをしつこく繰り返す作品だから。)

 また(個人的には気にならなかったが)没入感を大事にする人にとって、この手の内輪ネタは唾棄すべき下策だろう。BGMが流れる度に物語から現実へと引き戻されるからだ。このBGMが流れる度に笑い出す迷惑なオタクが各地で出没したとも聞く。何にせよ好き嫌いの別れる表現である事には間違い無さそうだ。

 

ゴジラの生物学的な考証について
 他のゴジラシリーズより少し突っ込んだ議論を重ねているのも本作の特徴。しかし、これが返ってツッコミ所を増やす結果に繋がってしまったと思う。まず酸素も食料も要らない完全生物なら口は不要だろう。百歩譲って「口は背ビレと同様に放熱に特化した器官である」と仮定しても、その先に食道や胃が存在するとは限らない。ならば何故凝固剤が経口投与がゴジラに効いたのか、ゴジラバイアベイラビリティはどうなっているのか、検証実験で凝固剤の選定を行ったというがin vitro実験だけで判断できるとは思えない……など、矢口プランに対する致命的な疑問符が大量に浮かんでしまう。(とはいえ静注が無理臭いのも事実なんだよな……。)

 また、新元素の半減期が何かのオマケのように処理されてしまったのも、個人的には勿体無いと感じる。ここで仮に微生物と新元素との関係に言及されていたら、牧悟郎が新元素の設計にも一枚噛んでいる事になり、巷で散見される牧悟郎ゴジラ説の信憑性が更に高まるだろう。故に勿体ないと思った。

 好き勝手言ったが、私はまだ本作を1回しか見ておらず、全ての描写を拾えたとは言いがたい状況だ。2回目、3回目を見る機会があれば、もう少し詳しく生物学的に考察してみたい。その時は、この記事に追記したいと思う。

 

・人間ドラマについて
 徹底的な法的根拠の検証や現代的なモブの反応などに関しては先人が好きなだけ語ってそうな気がするので、ここでは割愛。個人的に好ましいと感じたのは「”現実”を群像的かつ無機質な作劇で見せる」というゴジラにしては新たな課題に取り組みつつ、一方で「主人公とその取り巻きが独自に調査を進める」という古典的なエンタメ要素を忘れなかった点。また、主人公の周りの彼らが総じて早口なので、限られた尺に情報を詰め込めるのは勿論、その早口がキャラクター付け(要はオタク臭い)として機能しているのも巧いと思った。最初のチーム紹介でテンポよく全員をdisったのがファインプレーだろう。あのシーンで主人公チームに愛着が湧いた人は少なくない筈。
 怪獣映画には「他の奴の足を引っ張りたくて仕方ないキャラ」が独りは必ずつきもので、そいつがヘイトを一身に背負うからこそ、主人公その他を「純真な存在」として表現する事が出来る。しかし「日本はまだやれる」という台詞の通り、シンゴジラに無能や悪役(牧悟郎は悪役というより……)は出てこなかった。日本政府は一丸となって脅威に立ち向かうが、しかし決して一枚岩ではない。一人一人の立場、思惑、矜持が台詞や表情、そして行動選択に顕れていた。だからこそ、それを問答無用で消し炭にするゴジラの災害っぷりが効果的に強調されている。終末の光は人間の尊厳など考慮してくれない。それを踏まえて、尚、現実の象徴を総動員して挑む人類がアイロニカルで痛快だったのだが、それに関しては後述の「ヤシロギ作戦について」で述べる。

 

・ヤシロギ作戦について
 新幹線や在来線、高層ビルなど日本の文明(現実)の象徴を総動員してゴジラ(虚構)を圧倒する。まさに圧巻。兵器だけでなく日本の全てをゴジラに投入しつづける泥仕合に惹き込まれた。

 そもそも、この作戦が成功しないor間に合わなければ、核兵器ゴジラに打ち込まれる事になっていた。核の象徴に対して核を使う。これは東京SOSで強く訴えられた「人類は過ちを繰り返す」を地で行くような作戦だ。それをヤシロギ作戦は真っ向から否定した。この構図は前述の「日本はまだやれる。」に繋がる文脈だと私は考える。

 また第一小隊の全滅に際して矢口が目を伏せたのも印象的。予てより東宝自衛隊は味方の犠牲に冷た過ぎないかと思っていたので。「戦争映画じゃないので、その手の描写はオミットして然るべきだろう。」という主張も分からなくない。テンポの問題も有るし。だから一瞬だけ矢口が目を伏せるカットを挟む。アレは必要十分の表現だと思う。尺の問題も有るしね。

 ただ強いて言うなら、ゴジラの抵抗が少しショボかったのは残念。尻尾から熱線を出すギミックも白昼という時間帯のせいでイマイチ画として映えなかった。もっと人類の想像しえない手段でゴジラが抵抗し、それに対して矢口が重大な決断を下す、という場面があれば、もっと盛り上がったのに。そも矢口が現場にいたのは、その場で政治的な決断を下せる人間が必要だったからと説明されている。これは何か起こるフラグだろうと思ったが、特に回収される事なく終わったのは肩透かしだ。

 

ゴジラについて
 今回のゴジラは他のシリーズに比べると色々な要素が混在している。基本的には単なる巨大生物であり、GMKゴジラみたいに人間を殺す事へ生き甲斐を感じているような素振りは見せない。知性にも乏しいと見える。しかし、そのルーツには当然ながら”核廃棄物”という人間の罪がある。また、仮に牧悟郎が融合しているなら、放射線や日本への恨みがインストールされている事になる。このゴジラが都心に執着した理由も自ずと想像がつくだろう。

 このように相反した概念を併せ持つシンゴジラだが、現代日本では地震津波、火災、大雨、落雷と等しく「災害」として処理される所に、一抹の虚しさと不思議な安定感を覚えた。これだけの要素を混在させれば統一感の無さに違和感を覚えて然るべきだと思う。しかし、結局のところ人類から見ればゴジラも単なる「災害」でしかない、そう弁えた途端に全てが虚飾に見えた。矢口は「ゴジラと共存するしかない。」と言ったが、「災害」に対しても同じことが言える。この作品はゴジラという存在ではなく、その捉え方にメッセージを込めたのだろう。変則的だがこれほど”現実対虚構”に相応しい表現はないと私は思った。*1

 

 まだ書き足りない事が有るけれど、気力と時間が足りないので、ここで擱筆する。筆を走らせて実感したが、やはり1回見ただけでは記憶から抜け落ちている点が多い。これは他のゴジラシリーズにも言えること。時間を見つけて過去作を観直した上で、再度、シンゴジラを鑑賞したい。以上、こんなメモ紛いの文章を読んでくれて感謝する。

 

【追記 16/08/04】

 そういえば以前twitterで「シン・ゴジラでは9条が無視されているので、確かに”左右の9条論への揶揄”というポリティカルなメッセージが込められているのだ。」という評論を見かけたが、本作を鑑賞した今になっても結局、ピンと来なかった。

 9条は対象を”国際紛争”に限定した法規なのだから「”自然災害”であるゴジラに防衛出動を行う法的根拠の議論」で引き合いに出されないのは至極当然の流れであり、そこに何か9条への特別な意図が込められているとは思えない。発言者は「シン・ゴジラ自衛隊法の解釈次第で9条を無視した防衛出動が可能である事を証明した」といった趣旨の発言をしているけれど、それはあくまで相手が”ゴジラ”である場合の話だろう。確かに「もし事が国際紛争であったとしても、国は同じ対応を取ることが可能なのではないか……?」というクエスチョンは興味深いけれど、少なくとも作中では議論されていない案件だ。故に私の持論においてはシン・ゴジラと”左右の9条論”は無関係であり、制作陣が上述の意図を込めているとは考えにくい。

 一方で深読みするのは別に個人の自由だと思う。誰に制限される謂れもない。揶揄している可能性もゼロではないのだ*2。ただし、その自説を他人に上から目線で押し付けたり、主観に過ぎない意見を”確かにある”と事実であるかの如く断定したりすると、当然ながら要らぬ反感や誤解を招いてしまう。人の振り見て我が振り直せ。私自身も肝に命じるべきだと痛感した。

*1:あの終わり方を”投げっ放し”と評する者もいるが、私はそう思わない。矢口はゴジラとの共存を覚悟した。それは作品としての結論とも言えるからだ。

*2:真相は制作陣のみぞ知る。

三者三葉を三話まで見ました

 この記事はネタバレを含みます。それをご了承の上で御覧ください。

 

 

 

 こんにちは。ぽてかなです。

 今回は2016年春アニメにして、動画工房の期待の新作「三者三葉」1~3話の雑感です。先日公開した「はいふり」雑感と同じで、この記事もベースライン――すなわち私の「三者三葉」鑑賞の原点として扱います。

 さて、前置きはここまでにして、本題に入りましょう。

 ……と言いつつ、早速横道に逸れますが、皆さんは葵せきな先生の「生徒会の一存*1」というラノベをご存知でしょうか。1巻の初版刊行が8年前なので、既読者でも内容を忘れている方が多いかもしれませんね。というか、もう8年前ですよ。先生の前作「マテリアルゴースト」に至っては10年前です。そして2年後には生存が「10年前」になっている訳です。この「10年前」が迫ってくる感覚……恐ろしいですね。何が恐ろしいのか考察しはじめたら、本格的に読者諸氏がブラウザバックしてしまいそうなので、ここでは控えますが。

 で、なぜ唐突に生存を引き合いに出したかと言うと、お察しの通り、私が「三者三葉」を拝見したときに真っ先に想起したのが、この作品だったからです*2。生存ほど「三者三葉」の副読本として有用な作品はないだろう、と思ってしまうぐらい。その理由は後ほど説明します。

 生存の基本的な構造は至ってシンプルです。多かれ少なかれ変動しますけどね。

1、会長の受け売り名言でスタート

2、生徒会役員の駄弁りor活動

3、終盤で「いい話」に

4、それを台無しにするギャグオチ(照れ隠しとも言う)

 1や2が3の伏線になっているパターンが大半です。何でもないギャグに誰かしらへの気遣いや愛情が込められています。3の段階でしれっと種明かしされて、読者はハッと気付かされるという寸法です。

 ここまで言えばピンと来る方も多いはず。そうです。「三者三葉」も生存と同じように、人間関係の機微をギャグでカモフラージュしながら描いた作品です。"主役"はギャグだけど、"主軸"は心の交錯にあります。2話と3話は特にそれが顕著ですね。葉山光や園部篠の家族愛には胸が温かくなりました。

 しかし、同じ点があれば、違う点もあります。

 まず「三者三葉」の方は愛情の矢印が一方通行気味なんですよね。今のところ葉子、照、双葉*3は毎回、受け手側に回っています。今後は三葉からのアプローチも欲しいです。

 無論、行動が伴わないだけで"想い"は十分に描かれていると思いますよ*4。照が消え入りそうな声で「ありがとう」と口にするシーンなんて最高ですね。そこでお姉ちゃんが「ええ、何だって?」と某難聴主人公ばりに聞き返さないのもグッドです。大事なのは相手に聞こえるかではなく、照が感謝しているという事実のみ。電車の音に隠れるように言ったのは照の照れ隠しでしょう。私はそう思っています。そしていずれ照の方から光に情愛を向けるエピソードが不意打ちで挟まれたら……私としては本作を名作認定するのも吝かではありません。

 その点、生存は双方向のアプローチを一息で描くために、キャラの知性を高めるという手法が取られています。生存の登場人物は皆、普段の会話から数手先を読むような人間ばかりです。故に誰かの気遣いや空気を敏感に感じ取って然り気なく応えると、他の誰かがそれに気付いて微笑む……という”察し”の連鎖が発生します。その上で「本人の前では気付かないフリをする」という選択肢が取られるケースも珍しくない。そこまで敏いくせに、やっていることは馬鹿丸出し――この矛盾が生存の魅力です*5

 「三者三葉」のキャラは、さすがにここまで機転の利く人達ではないですね。だから、例えば上述のイベントでも、照はとうの昔から光の気遣いには気付いていて、ふとした拍子に感謝を伝えてみる*6も、それに対する光の返しがまた数枚上手*7で、照は「やっぱりお姉ちゃんには敵わないなぁ」と呆れつつもどこか満足気に笑うのであった……みたいな生存っぽい展開にはなりません。それはそれで個人的には見てみたい気もしますが、しかし、アプローチの矢印をエピソードごとに区切る方が、人間関係の変化が分かりやすいという見方もできます。特にアニメという限られた尺でやるならば尚更、双方向を一気に描くのは得策ではありません。1話毎の情報量が増えてしまうので、それを裁くのに手一杯で他の要素が疎かになりかねない*8。「え、何だって?」が無いのも一方通行の賜物かもしれませんね。

 或いは少々不器用に設定されているからこそ、等身大の女の子が描かれているとも言えませんか。生存はハイスペックな人間しか出てこないので、読者としては憧憬の念を抱くことはあっても、親近感は湧いてこない。その点、三葉が送る日常は、もしかしたら私の知らないどこかで本当に起きているかもしれない、と思わせてくれるようなビリーヴァビリティに満ちています*9

 その一助となっているのが動画工房の仕事でしょう。動画工房と言えば「よく動くアニメーション」で有名ですが、この「三者三葉」でも女の子がよく動きますよね。ほら見て下さいよ、1話で葉子様が「いつも悪いわねっ」と返すシーンでの頭の振り具合。ここで私はみでしのワンシーンを思い出しました。真白が廊下を走って玄関先の白夜に飛び込むときにフローリングで少し横滑りするカットです*10。この2作品は「キャラを動かすけど、無駄な動きはさせない」という点で共通しています*11。”女の子”を描く上で必要なベクトルでしか動かさないけど、そのベクトル上ではガッツリ動かします。他にも例を挙げますと、双葉がパンを頬張るシーンの食パンのふわふわ感や、光に呼びかけられたときの照の表情変化、渾名を要求する葉子様の流れる清水の如き所作などなど。こういった些細な芝居を詰めることで女の子らしい情感が生まれ、引いては作品のビリーヴァビリティ向上に寄与するのです。

 これは絵コンテや監督の仕事ですかね。木村泰大氏は「三者三葉」が初監督で1話と3話の絵コンテを担当されています。頑張ってらっしゃるなーと思いますが、最初からアクセルを踏み過ぎな気もします。中盤終盤で息切れしなければ良いのですが。あー、でも3話の時点で作画カロリーを抑えるような工夫*12は随所に見られましたから、これは杞憂に終わるかもしれませんね。そうであって欲しいです。

 2話の絵コンテ演出を担当された谷田部透湖氏は新人ながら興味深い方です。7本の自主制作アニメを制作したかと思えば、いきなり商業作品で動画や原画マンをすっ飛ばして作監や絵コンテ演出を任されるという、稀有な経歴*13の持ち主。最新の自主制作アニメ「木の葉化石の夏」を見る限りでは、なるほど、「三者三葉」2話に通ずるポイントが色々と見えてきます。本人もtwitterでその旨を呟かれているので紹介しましょう。

 木村監督も初監督の割になかなか思い切ったことをしますね。絵コンテの個人趣味に任せたということは、恐らく原作とはズレている箇所もあることでしょう*14。原作読者に叩かれそうな要因は極力排除した方が無難だとは思いますが、どうなんでしょうね。特に芳文社きらら系作品のファンは、原作ブレイカーに敏感なイメージがありますから*15。ただ個人的にはそれほど違和感を覚えませんでしたね。今まで都市部の話しかなかったので唐突な田舎には少し面食らいましたが「恐らく親戚の家が田舎にあって、お盆か何かで遊びに行ったんだろうな」と脳内補完することで順応しました。今後の話で齟齬が生まれれば台無しですが、そこはシリーズ構成・脚本の子安秀明氏が適切に対応するのでは。彼は動画工房との関係も深いので、変な伝達ミスが発生するとも思えません。安心ですね。

 さて閑話休題。生存との比較に戻りましょう。

 生存はギャグからいい話に持っていくとき、台詞や地の文で全て説明してしまう傾向にあります。説明されないと分からない箇所もあるので仕方ないといえば仕方ないのですが、やはり言葉にされると軽くなってしまうのも事実。そのせいで興が削がれる場面も少なくありません。その点「三者三様」では言葉での表現がなるべく抑えられているように思えます。まあ裏を返せば、生存のキャラほど多くを察していないからこそ出来る芸当とも言えるのですが、それ以上に絵の説得力でカバーしている面もあります。例えば、光の気遣いに気付いた照の歩調の遅れとか、三葉のかしましい会話を見て園部が回想するまでの僅かな間とか。つまりこの作品では「登場人物が無言で何か考えている様子」を表現するために、ちゃんと尺を割いているのです。特に顕著なのは、西山芹奈が猫を貰ってくるシーンですね。照れ隠しで言葉を重ねていた芹菜が、猫に飛び掛かられると黙ってしまう。そして「光の加減で見えない写真が映るだけのカット」を挟むことで、ここでも芹菜が黙考するだけの時間を用意する。考えている内容は、それまでの流れと"見えない写真"というファクターから、視聴者が勝手に想像してよい。理想的なまでに押し付けがましさの無い作品です。だけど見せるべき部分はキッチリ見せてくれます。これが初監督の仕事とは思えないですね。なかなかどうして上手いこと調整されていて、驚嘆の念に堪えません。

 でも中にはもう一手、何かしらの指針を欲する人もいるかもしれません。そこで私は思うのです。生存ほど「副読本」として相応しい作品は無いと。特に葉山照は"腹黒"かつ"守りに入ると弱い"という性質が生存の紅葉知弦にそっくりなんで、個人的にはさくっと内面を想像できて楽しいキャラです。この記事でもやたらと照に言及しているのは、つまりそういうことですね(笑)実のところ照は芹菜の煽りを悪く思っていないのでは?今や猫好きという共通点も出来たことだし、何だかんだ言ってこれから仲良くなるのでは?文句言いつつも光のバナナニンニクジュースを飲み干す照は、やっぱり気遣い云々に気付く前からお姉ちゃん大好きっ娘なのでは?*16とか色々想像して楽しんでいます。とはいえ葉山照の腹黒さは単なる記号ではなく、かなり繊細にコントロールされていますので、他の要素が入り込むにつれて少しずつ薄れていく可能性は大です。そこまで手が回らないんですね。実際、3話の照は少し腹黒成分が弱いなと思いませんでしたか。私は若干気になりました*17。これが私の杞憂で終わるように、監督やシリーズ構成には頑張って頂きたいですね。

 最後に音楽や音響、美術について、さらっと触れて終わります。

(……本当はここでOPの作詞・作曲を担当されたおぐらあすか氏と動画工房の親和性について語る予定だったのですが、twitterで全く同じ論説を見かけたのでそれを引用するだけに留めます。)

 さて劇伴です。……とはいえ、うーん正直、特に印象に残る劇伴は無いですね。変に浮くよりはマシなのですが。良くも悪くも色が薄い。最近の動画工房では「干物妹!うまるちゃん」の劇伴が私の好みです。経験豊富な三澤康広が担当されているだけあってメロディがキャッチーで耳に残ります。あのモールス信号のような曲調にヤられた方は少なくないでしょう。「三者三葉」の方が使用する楽器は多岐に渡っていて、特に山Gのテーマや薗部さんが屋上に出るシーンのBGMは悪くないなーと思うのですが。効果音と声だけで演出するシーンも多いので、そのせいで劇伴の存在感が薄くなっているのかもしれませんね。でも同じような演出方針だった「みでし」では特に気にならなかったんですよ。劇伴もそこそこ印象に残っていまして。ふーむ、もう少し話数を踏まえて吟味する必要がありそうですね。

 美術に関しては言うことがないです。グッド。牧歌的な雰囲気が彩度の低い色彩設計とよく合っています。舞台は町中に設定されていながら、三葉の憩いの場――つまりキープレイス*18は木洩れ陽の揺れる梢の影。都会ではないけど田舎でもない。このミスマッチが独特な色彩設計を軸に纏まっています。不思議な感覚です。2話の唐突な田舎にさほど疑問を抱かなかったのも、この辺りに原因があるのかもしれません。もしや監督はそこまで計算した上で、新人絵コンテに自由にやらせたのでしょうか……。あくまでこれは私の憶測なのですが、もし事実だとしたら上手いこと掌の上で転がされたなーと思います。心地よいですね。本当は何も気にせず、茫洋とした気分で眺めるのが1番素敵なアニメ鑑賞だと思っているので*19。寧ろ上手に騙してほしい。今後の話数にも期待できそうです。

 と、こんな感じで「三者三葉」は個人的に大層楽しめそうな作品です。この記事を描く上で何度も見返したのですが、これが全く飽きないんですよ。私は「見る度に発見のある作品」は率先して視聴回数を増やす傾向にあるのですが、時折それとは関係なく「単純に好きだから」という理由で増やすこともあります*20。「三者三葉」は後者ですね。生存やみでしを鑑賞しなおす貴重な機会にもなりました。今後も気になる作品があって、尚且つ、気が向いたらブログに記事を上げる所存なので、暇な方は是非覗いていって下さい。そしてもし宜しければ、貴方の慧眼なる知見を授けて下さると幸いです。

 それでは、またいずれ。

*1:以下、生存と略称

*2:今更ですが、この記事は生存のネタバレも含みます。

*3:以下、この3人を三葉と呼びます

*4:この微妙なニュアンスを含めて一方通行”気味”と、奥歯に物が挟まったような言い方をしたのですが、伝わりましたか。

*5:同じ方向で突き詰めた挙句にジュブナイルサスペンスへ昇華させた「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」という作品もあります。文句無しの名作なので未読の方は是非。

*6:不意打ちという名のS行為も含めたり

*7:しかし無意識。生存的には会長ポジション。

*8:それでも上手いこと両立してしまう作品もあるにはあるのですが。

*9:ちなみに「私の知っているどこかで本当に起きているよなぁ」と納得してしまうのが"ゆゆ式"です。

*10:1話参照

*11:三者三葉」では、みでしのように中割で崩す

*12:引きのカットや平面的な構図が少々目立ちました

*13:それとも割りと珍しくない経歴だったりするんですか。私は初めて見ましたが。

*14:私は未読なので知りませんが

*15:ほらモザシコ警察とかさ……

*16:まあ無理に飲まされたようにも見えましたが

*17:いや本当に”若干”なんですけどね。

*18:こういう言い方するんですかね。しなさそう……。

*19:こんな考察分析まがいの記事ばかり上げて何を言う、と思われそうですが。

*20:両方を満たす作品もありますよ。最近ではガルパン der filmが該当します。

はいふり1話を見ました。

 この記事はネタバレを含みます。それをご了承の上で御覧ください。

 

 

 

 今春より放送開始のオリジナルアニメ

 「はいふり」――改め「ハイスクール・フリート」

 メインスタッフに鈴木貴昭さん*1、吉田玲子さん*2グラフィニカ*3と、ガルパンのメインスタッフが名を連ねているので、私のようなガルパンおじさんは予てより注目していた作品でしょう。

 先日、待望の1話が放映されたので、忌憚なく雑感を述べようと思います。*4

 

 やはり当然ながら、随所にガルパンの影がチラつく作品だなと思いました。2番煎じ、パクリと揶揄する意図はありません。ただ、ガルパンスタッフに惹かれて見始めた以上、何かと比較してしまうのは不可抗力なんです。そういうことにして下さい。

 さて、まずは3DCGから。上述した通り、2作品ともグラフィニカさんが請け負っています。更にガルパンでリードモデラーを担当していた後藤岳 氏が、本作品でもチーフモデラーを担当しています。そのせいか、いや、間違いなくそのせいで、艦船のモデリングはかなり拘って造り込まれています。特にウェザリングのリアリティは瞠目すべきと言えるでしょう。(ただ鎖のCGは少しのっぺりしていて気になります。円盤で修正されるのでしょうか。)あと海面のCGも文句無しの出来。海や河の3DCGは特に手間が掛かるようで、ガルパン6巻BDでは戦車渡河シーンでの苦労話が聞けます。今作品はその苦労を毎度のように背負わなくてはならないので、いや本当にグラフィニカの皆さんが過労死しないか心配です。

 ただ、ガルパン総作画監督 兼 ミリタリーワークスとして活躍なさった伊藤岳史 氏がハイスクール・フリートには参加していないんですよね。これは個人的にかなり残念に思っています。ガルパンの緻密な車内設定や個性溢れるモーション等々は並べて、伊藤先生の妙手の賜物です。*5。彼が「ハイスクール・フリート」に参加した暁には、船内のデティールが桁違いに跳ね上がるのは勿論、キャラクターの芝居にも深み*6が出てくるのは間違いないでしょう。少なからずガルパンスタッフが参加している企画なのだから、どこかで「伊藤先生の力をお借りしよう」という話が持ち上がってもおかしくないと思うんですけどね……。スケジュールが合わなかったのか、制作会社との関係がよろしくないのか。うーん、残念です。

 閑話休題。3DCGだけでなく台詞回しにもガルパンっぽさが垣間見えますね。特に戦艦道シーン*7での、シリアスとコメディが錯綜するハイテンポな掛け合いは、ガルパンそのものです。本作品もガルパンと同じように、細かい台詞回しを積み重ねることで、じわじわとキャラ付けしていく構造なのでしょう。吉田玲子さんは人間関係の微妙なニュアンスをコントロールすることに長けています*8から、キャラクターが30人を超えていようと上手く捌いてくれるはず。(とはいえ今回は艦橋要員と見張り員、それから幼なじみちゃんしか印象に残らなかったけど……。)

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こういうレイアウトで複数のキャラを見せる手法も、ちょっとガルパンっぽい?

 

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士官帽を被った途端に表情がキリッと引き締まる岬明乃ちゃん。透き通るような碧い眼が炯々と光っています。彼女の「攻撃はじめ!」で西住殿の「攻撃開始」を思い出しました。第二の軍神誕生?

 

[追記:2016年4月18日]

 ミケちゃんが「私が艦長で大丈夫かな……?」と口にする*9シーンで、瞳の中を涙が"うるん"と一回転する描写がありましたね。これはガルパンでも何度か見られる演出です。ガルパンと同じように、最初はミケちゃん1人の"うるん"だったのが、最終話付近では皆に"うるん"が伝染しそう。スタッフコメンタリーで自賛されていた演出なので可能性は高いと思うのですが、いかがでしょうか。

 ただ、今作品はガルパンと違って人死のリスクが否定されない世界観なので、それ故にガルパンにはない魅力を感じる台詞回しもありました。すなわち発泡直後の渾名ネタです。このタイミングでのギャグに違和感を覚えた人は少なくないと思いますが、私は寧ろ安心感を覚えました。というのは、出航シーンで突如、人が変わったように矢継ぎ早に指示を出す明乃と淀みなく応えるクルーの皆を見て、もしかして彼女たちは普通の女子高生などではなく、大人顔負けの知識と精神を兼ね備えたプロ集団なのか?これがブルーマーメイドって奴なのか?と疑念を抱いていました。でも実際には、そうでもなかった。非常事態に陥っても即座に意識を切り替えられず、日常の戯れ言を口にしてしまう明乃ちゃん。それに思わず反応してしまうシロちゃん。彼女たちは特殊な訓練を受けたプロではなく、突然の脅威を現実として受け止められず目を逸らしてしまうような、あくまで(知識や技術はともかく精神的には)普通の女子高生でしかない。その事実を、あのシーンで初めて"実感"することが出来ました。あのタイミングでギャグを挟んでくれたからこそ、私は安心して彼女たちを「女子高生の殻を被った軍人」ではなく「艦船の運行に長けているだけの年頃の少女」として見ることができたのです。

 しかし、そんな「いかにも」な女子高生らしいキャラがいるならば、逆に軍人としか思えないような「プロっぽい」女子高生がいてもおかしくない。それが個性というものです*10。見張り員ちゃんは、後者に属する人間ですね。晴風クルーで唯一、着弾と一弾指の間もなく意識を切り替えて、皆に注意喚起をしました。彼女は完全にプロの精神を会得していますね。不安定な足場にも関わらず砲撃を受けても落下しない、あのバランス感覚もおかしい。人間離れしています。それ故に見張り員を任されたのでしょう。うん、いいですね。こんな感じで一人一人の個性をアピールして欲しいです。

 さて、何でもかんでもガルパンに結びつけてしまうのも良くないので、ここからはガルパンとは関係無く感じたことを述べたいと思います。

 効果音や着弾・爆発エフェクト、カメラワークは出色と言って差支えのない出来だと思います。特に手旗信号からの着弾→トラックバック→回り込みの臨場感は最高ですね。そして激しく捲り込む波のうねり。轟く濤声。さすがは演出出身の監督と言ったところでしょうか。やはり奥行きをダイナミックに使った戦闘シーンは迫力が違うんですよね。個人的には1話で最も胸を打たれるシーンでした。ちなみに同じ海モノ繋がりで引き合いに出しますが、アニメ版艦これの5・7話*11も空間を立体的に使った戦闘シーンが楽しめますよ。画面左側から手前に寄り、右側の奥にいる翔鶴の元へ流れる瑞鶴をカメラが控え目にフォローします。あの臨場感が堪らない。個人的に艦これアニメには良い印象が無いのですが、5・7話は正しく鶏群の一鶴と言うべき代物でした。この機会にでも是非見直してみることをオススメします。

 余計な世界観説明や用語解説が無いのは、この作品の美徳だと思います。そういった要素は感情移入の妨げになってしまうので。ブルーマーメイドの標語も「メタ的には視聴者向けの解説だけど、作中では一般的に認知されている文言」という扱いであり、尚且つ、ミケモカの幼少からの繋がりを端的に示すキーワードとして機能しています。これは素晴らしい。

 ただ裏を返せば、説明不足により視聴者と制作の間でコンセンサスが取れず、視聴者を置き去りにしたまま話が進んでいく危険性を孕んだ構造とも言えます。せめてブルーマーメイドが「何から」海の安全を守るのか、倒すべき脅威――すなわち作品としてのゴールを明示してくれれば、自ずと物語の方向性も見えてくるでしょう。今回の1話は掴みに特化した造りなので説明不足でも許されますが、2話か3話で足場を固めてないと視聴者は段々と振り落とされてしまうだろうと思います。しかし間違っても「過度な説明」や「モノローグで解説」といった、お寒い演出は御免被りたい*12。絶妙な塩梅が要求されますが、そこは監督が上手くコントロールしていく必要があるでしょう。

 ここまでは作品を割りと好意的に語ったつもりですが、やはり気になる点もいくつかありました。それを3つほど挙げて説明します。

 1つ目。日常シーンの会話に緩急がない。ミケモカ再開シーンは特にそれが顕著で、互いに一定のリズムで言葉を投げ合っています。相手の言葉を受けて考え込んだり、意表を突かれたりといった表現が見られないので、視聴者としては人間関係の間合いが掴みにくく、キャラ把握の難易度が上がってしまいます。そのせいか2人が抱き合うシーンも、どこかぎこちないように見えてしまう。せっかく吉田玲子さんが脚本を担当なさるのですから、会話の間合いも含めて人間ドラマを作り込んで欲しいなと思います。

 2つ目。劇伴や他の人の台詞に隠れて聞こえにくい台詞が散見されます。原因としてまず「リアルな時間の流れを演出するため」という説が考えられますが、そうなると渾名ネタの最中に撃ってこなかった件が不自然であり、また劇伴に隠れていたケースを説明することが出来ません。狙いが「全ての台詞が視聴者に聞こえるわけではない=視聴者が見ていない間も彼女たちは会話している、という”リアル"を実感させる」ことだとしたら、それはそれで(上述した)会話のテンポ問題とチグハグで違和感を覚えます。音響監督や編集の力不足と見るしかないのか、この演出が今後の話数で効果を発揮するのか。今後も注視していきたい点の1つです。

 3つ目。日常シーンの画に立体感がない。これもミケモカ再開シーンが特に顕著だったと思います。奥行きが無ければキャラとキャラの距離感が掴みづらいので、人間関係や情感を把握しにくい。画に奥行きを持たせるには結構なカロリーが要求されるらしいので、戦艦道シーンにリソースを振るために敢えて日常シーンには平面的な構図を多用したのかもしれません。まあ距離感に関しては、アングルを適度に切り替えれば解消できる問題なのですが、今後の展開によっては会話が繰り広げられている"その瞬間"に距離感を把握させて欲しい場面も出てくると思うんですよ。そういうシーンには思い切ってリソースを注ぎ込んで欲しいですね。艦船だけでなく少女も本作品の主役ですから。

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奥行き繋がりでもう一つ。このシーンを見たとき、明乃ちゃんたちと艦船との縮尺に違和感を覚えたの私だけでしょうか。もっと2人と艦船との距離を空けてアングルを明乃ちゃんたちに寄せた上でグイッとクレーンアップすれば、艦船が整然と並ぶ壮麗な俯瞰絵を見せられると思うのですが……。そうはいかないモノなんですかね。

 

 最後に今後の展望や個人的に欲しい展開を述べて終わろうと思います。

 まず何と言って気になるのが教官の真意ですよね。劇中で何度も示唆されているように教官は意図的に砲撃を外すことで、晴風の叛逆を誘導しています。教官は「穏やかな波は良い船乗りを育てない」と言いましたが、さすがに単なる教育の一環だとしたら熱血指導が過ぎるでしょう。さりとて教官の行動には計画性が無いので、予てより晴風を嵌めるつもりだったとも思えません。というのも、今回の一件を意図的に起こすためには、晴風に何かしらの細工を施して故障させなくてはなりませんが、それを示唆するようなシーンは見当たらないのです*13。つまり教官がその場で晴風を反乱分子に仕立てようと思い至る理由がどこかに隠されているはずなのです。しかし推測しようにも手掛かりがないのでモヤモヤしますよね。憶測や妄想に範囲を広げるなら色々と思う所はありますが、それこそ2chや他のブログで既に散々考察されているのではないでしょうか*14。何にせよ真相が明かされたときに、この1話が「いや、そこまでする必要があったのかな?」と言われるようなシナリオにならないことを祈っています。

 あと晴風クルーの名前を早く覚えたいので、各科にフォーカスした話が欲しいですね。それも○○科回○○ちゃん回といった形式ではなく、戦闘や日常の中で断片的にエピソードを盛り込むような造りの方が個人的には好きです。(それに本作品はシナリオの中軸が謎に包まれているので、それを明かさないまま話を停滞させたら、視聴者が離れる要因になってしまうと思います。)

 例えば「放課後のプレアデス」でキャラクター達がカーテンに包まって会話したシーン*15は、キャラ描写の模範例だと思います。画角を狭めて画面には喋っているキャラだけを映し、会話に合わせてカメラを小気味よくパンさせる演出は、一人一人を覚えさせる上では非常に効果的ですよね。何せ話している本人以外は画面に映らないので、発言内容とキャラの顔を記憶の中で一致させやすいのです。或いは本人の言動だけでなく、他のキャラから掛けられる言葉を以って、キャラを立たせていくのも面白いと思います。この手の表現は我の弱いキャラクターの心理描写には持って来いです。例えば「たまゆら」シリーズの沢渡楓は、まさに人との関わりの中で人間性を描かれたキャラクターですね*16。他には一人一人のパーソナルスペース*17も気になりますし、無意識に出る癖*18を見せてくれると嬉しい。特に後者は既に本作品でも散見される*19ので、今後も期待できそうです。

 とにかく明乃ちゃんたちに関する情報が欲しい*20。でも押し付けがましくない程度に。黙して語るスタイルで明乃ちゃんたちの魅力をそれとなくアピールしてほしい。そして明乃ちゃんたちを好きにさせてほしい。好きにならないと感情移入も儘ならないのです。感情移入できなければ、折角の戦艦道シーンも魅力半減でしょう。

 そして、もし仮に人死や人権の蹂躙といったシリアス展開(の中でも極めて深刻な方向)に舵を切るのならば、趣味嗜好や人となり、アイデンティティの描写だけでは足りません。やるなら徹底的にやらないと浅陋の謗りを免れないでしょう。正直、そこまで攻めるなら1話から相応の布石*21を打たないと厳しいので、さすがに死を絡めてくることは無いと予想しています*22

 ということで。そろそろ疲れてきたので筆を置きます。ああでも、最後に1つだけ。この記事は私にとっての"ベースライン"です。2話以降を見たときに振り返るべき原点の記録。なので正直、これを公開する理由は特に見当たらないのですが……。まー、最終話が終わる頃に、私の期待が悉く裏切られていたり、予想が大外れだったりしたときには、せいぜい笑ってやって下さい。そうやって痛みを共有するのも、立派な愉しみの1つなので。それが「公開した理由」になることでしょう。

 それでは、またいずれ。

 

 

[追記 2016年4月18日]

 最近「少女終末旅行」という漫画の一巻を拝読しまして*23、その中に「はいふり」でも見たい描写を見つけたので、ここに追記しようと思います。これも一応、ベースラインの1つとして扱うため、新記事ではなく追記という形を取りました。まだ2話を拝見していないのでね。

 では早速本題へ。

※「少女終末旅行」のネタバレがあります。

 

 

 

 

 

 まずは百聞は一見に如かずということで、該当するシーンを御覧ください。(台詞は一旦、無視してください。)

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黒髪の方がチト。垂れ目の方がユーリです。終わってしまった世界を2人が旅する、ほのぼのディストピア・ストーリー。それが「少女終末旅行」という作品です。

<画像①とします> 

 見ての通り、2人が協力して段差を登るだけの、何でもない2コマです。でも、その何でもない2コマに、さり気なく描かれた2人の"距離感"。この細やかな描写に私は感嘆しました。その理由は直前の2コマにあります。

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私の言わんとしていることが、お分かり頂けますか。

<画像②とします。>

 ここで2人の会話をざっと確認して下さい。ざっとで良いです。

 ……はい、お気付きの通り、2人は本来①へ至るまでに交わして然るべき会話――例えば「段差が高い。登れそうにないよ。」とか「乗り込むから手伝ってくれ。」といった打ち合わせを一切行っていないのです。位置関係から分かることですが、アイコンタクトすら交わしていません。この2人には、そんなまどろこっしい意思疎通など必要無いのでしょう。ユーはちーちゃんの意図を汲み取って彼女を抱き抱え、そしてちーちゃんはユーを引っ張り上げる。そこに言葉は要らない――それどころか特別、意識する必要すらない。一連の流れを雑談の片手間で行っているのが、その証左です。

 そもそも何故2人は爆撃機の残骸に乗り込んだのか。まず2人が爆撃機を見つけたときの会話を引用しましょう。画像②の直前のコマです。それがこちら。

ユーリ「すごい!飛行機だ。飛んでたのかな。」

チト「昔はね。」

 以上です。紛うことなき単なる雑談です。次の行動に繋がるような要素はどこにも見当たりません。そこで、もう少し遡ってみると2人の狙いが分かります。

(戦車やトラクターなどの兵器の残骸が埋もれている雪原を見て)

ユーリ「ちーちゃんは武器もたないの?」

チト「いらないよ」

ユーリ「たくさんあるのに」

チト「ほとんどゴミでしょ。……でもまあもう少し探索してみようか」

 ~略~

ユーリ「ご飯落ちてないかな」

チト「いや……ごはんは……固形食料ならあるいは……」

  エクスキューズとしては漠然としていますよね。例えば爆撃機の前で「こんなに大きい兵器ならいろいろ積まれているかも。探索してみよう。」などと言わせれば、読者向けの説明としては必要十分でしょう。「いろいろ」を「固形食料」に変えれば、誤解の生じる余地はいよいよ皆無です。しかし、そんなわざとらしい説明台詞では、2人の親密度は全く伝わって来ません。何故なら誤解を恐れるということは、それだけ心の距離が遠いことを意味しているからです。その空漠を言葉で埋めないと、安心してコミュニケーションを取ることが出来ない。裏を返せば、距離が近ければ近いほど、会話から余分な言葉が削ぎ落とされます。晩年の夫婦がボケていても「あれ」「それ」だけで十分に通じ合えるのと似ているかもしれません。だからこそ筆者は、2人の距離感の描写を優先するために、読者への理由付けを最低限に留めたのでしょう。

 そして、ここで2人が”通じ合っている”ことを強調したことが、その後のセンシティブな展開の布石になっています。終末世界、食料と来ればピンと来ますよね。そうです。「略奪」です。詳しくは原作を読んで頂きたいので省きますが、ざっくりと説明しますと、ユーリがチトを銃で牽制しながら、5本入りレーションの最後の一個を勝手に食べてしまうのです。……いや”通じ合っている”とは何だったのかと思われるかもしれませんが、寧ろ事前に2人の親密度を強調していなければ、こういう展開には手を出せません。案の定、ユーリは食べる直前に銃を下げてしまうし、チトは「本気で食いやがった!」と今までの信頼関係を伺わせるような台詞を吐きながら頭突きを繰り出すし、ユーリはチトに殴られて何故か幸せそうに笑っているしで、緊迫感は一瞬で霧散してしまいます。極めつけが殴り疲れてユーリに体を預けたチトの「覚えていろよ……」ですね。2人がここで決裂することなく、これからも一緒に旅を続ける何よりの証拠です。結局、このエピソードを要約すると、食料略奪という死活問題ですら2人の間では茶番劇やじゃれ合いで終わってしまう、というハートフルな結論に落ち着く訳です。これは画像①②などの描写で土台を固めなければ説得力の出ない終わり方だと思います。

 このエピソードから私は「踏み込んだ展開をしたければ、まず人間関係をキッチリ描写しなくてはならない」と学びました。そこで、今まさに"踏み込んだ展開"をしようとしている「ハイスクール・フリート」に話を戻そうと思います。画像①のような「何でもない2コマ」を是非とも、この作品にも期待したいのです。

 ミケモカのハグがあるじゃないかと思われる方もいるでしょうが、個人的にアレを見たときは「今から百合サービス来ますよ!皆さん見ててくださいねー!せーのっ、はい抱擁!」みたいな、押し付けがましさとワザとらしさを感じてしまいました*24。どちらともなく笑い出すのもテンプレートじみた描写で、イマイチ2人だけの関係性が伝わって来ない。もっと(ミケモカに限らず)「この人達だからこそ」と思える特別な描写を、さりげなく入れて欲しいのです。

 それに、画像①に着目した理由は他にもあります。画像①のような描写は、読者がキャラの台詞と行動をほぼ同時に読み取れるような媒体――すなわち漫画かアニメでこそ効果を発揮する仕掛けだからです。小説ではどうしても行動と台詞が分かれてしまうので、台詞を読んだ瞬間には、そのキャラが今どんな行動をしているのかを読者は想像してしまいます。そこに台詞とは何ら関係の無い行動を地の文で描写されても、まずは困惑の方が先に立つでしょう。ノベルゲーでもCGとスクリプトにリソースを割けば可能でしょうが、少なくとも立ち絵とテキストのみでは不可能な演出です。でも「ハイスクール・フリート」はアニメなので、画像①のような描写を漫画よりも真に迫る形で取り入れることも可能なのです。ただ、その分だけ情報量は増えてしまうので、劇伴を控え目にして声優の演技だけに任せる、演出の主役となるキャラ以外は画面に映さない、などの「情報を絞る」工夫は必要不可欠でしょう。そこは監督や絵コンテ、演出の仕事ですね。

 まあ細かい演出はさておき、今後のシナリオに十分な振り幅を確保したければ、まず早い内に人間関係を示して土台を盤石にしなければならない、と私は考えています。「ハイスクール・フリート」は食料奪取ネタとは比べるべくもない、暗澹たるシリアス展開へと舵を切る可能性も否定できませんからね。それでも人間関係を主軸に据えておけば物語が脱線し過ぎることは無いんじゃないかな、と個人的には思うのでした。

 それでは、またいずれ。

*1:原案

*2:脚本

*3:3DCG

*4:本作品の欺瞞作戦については他所で散々語り尽くされていますから、この記事では触れません。悪しからず。

*5:詳しくはガルパン公式同人誌の「ガールズ&パンツァー ミリタリーワークス集」をご確認下さい。

*6:主にミリオタがときめくようなアレ

*7:便宜上、教官が撃ってくる前を日常シーン、後を戦艦道シーンと呼びます。

*8:世間でどう言われているかは知りませんが、個人的にはそう思っています

*9:後々の活躍を見れば「ほざく」という表現の方が正しいような……

*10:そもそも実際の女子高生は私が思うよりもタフで適応能力の高い娘ばかりなのかもしれません。

*11:吉田徹 氏の絵コンテ回。7話は演出も担当されています。

*12:あと3~4話の転換点でキャラを雑に殺す展開も結構です。間に合ってます。

*13:それどころか故障シーンすらない

*14:なので、ここでは深入りしません

*15:2話・Aパート

*16:映画第四部のパンフレットで、サトジュン監督ご本人が沢渡楓のキャラ造形について触れています

*17:ミケモカの抱擁はパーソナルスペース云々というより百合厨へのファンサービス感が露骨過ぎて……うーん。

*18:本音が出やすいとされる足癖が一番ほしい。偉大なるけいおん!シリーズを見習いましょう。

*19:パーカーっ娘のパンチとか。階段を滑り降りた直後にたたらを踏む仕草もよい。

*20:公式サイトに各キャラのプロフィールが掲載されたけど、いやそういうことではなくてね?(それはそれで嬉しいけど)

*21:それとなく主人公の人生観が表出したり、大まかなストーリーラインを暗示するメタファーが仕込まれていたり

*22:というか、公的機関が絡む企画でまどマギ路線をやるとしたら、暗愚を通り越して蛮勇ですよね

*23:この本の感想は気が向いたらtwitterか何かで

*24:……正直、あれはあれで嬉しいんですけどね。

がっこうぐらし!アニメ版の由紀が池沼超能力者にされたメリットとは

※この記事は原作既読者向けの記事です。読者が原作の描写を知っていることを前提として書いています。また、原作4巻、アニメ8話までのネタバレが含まれています。

 

 アニメ版の由紀がいかに池沼、或いは超能力者として描かれていて、そのデメリットに見合うだけのメリットがどこにあるのか、私は1人の原作ファンとして考えた。7話のとある描写を起点に、6話以前に遡ってキャラの言動を見極め、8話から今後の展望を読み取る。大まかな流れはこんな感じだ。

 前置きはここまで、早速本題に入ろう。

 7話では1巻第6話「おてがみ」が重点的に描かれた。このエピソードはみーくんが救出された後に回されるだろうと、原作既読者の大半が予想していただろう。OPで映る手紙にみーくんが描かれているからだ。

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 まず「おてがみ」にみーくんを出した狙いを推察する。

 このエピソードは1巻ラストのお話であり、最後に2巻への引きとして謎の少女が描かれて終わる。その少女がみーくんだ。私も1巻を読んだとき「このキャラは誰だ?」と気になって、気付けば2巻以降をポチっていた。しかしアニメでは1話から既に、みーくんが学園生活部の一員として描かれている。故に、前述のような“引き”が期待できない。必然的に「おてがみ」は最後の“引き”をカットして映像化されることになる。

 すると、この話は1話完結、非常にキリの良いエピソードに変貌する。7話の最終回然とした終わり方を見れば一目瞭然だろう。このあとにシームレスで別の話を繋げるためには、また新たな“引き”を用意しなくてはならない。故に、原作の「おてがみ」にアニメオリジナルの脚色を加えて、1話丸々を1つのエピソードで完結させる作劇が余儀なくされた*1。しかしそれでは尺が足りない。そこでみーくんと学園生活部の絡みを追加したり、太郎丸と由紀の認識論について言及することで、尺を調整したのだろう。

 勿論、これは全て私の憶測でしかない。だが、原作者がシリーズ構成を担当しているだけあって、精緻な計算の上で原作が切り貼りされているのは間違いない。

 ……そう思っていたのだが、どうしても計算が狂っているとしか思えない箇所を見つけた。百聞は一見に如かず。まずは該当シーンのやり取りを抜粋する。(尚、twitterでは全体的な改変の方向について何度か呟いている。気になる方はそちらを参照されたい。)

 

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「りーさんおかわりー!」

「ごめんね由紀ちゃん。お代わりは無いのよ。」

「遠足で持ってきたの、種類重視だったからなぁ。」

 

 

 一方、原作では――

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 見ての通り、原作ではうどんを切らした理由を「購買では補充できなかったから」と説明している。ここで、原作の一番下のコマに注目してほしい。由紀がぽかんと口を開けたまま静止し、それをくるみが気遣わしげに一瞥している。このあと由紀はめぐねぇに遠出の許可を貰いに行き、それが2巻第8話の「えんそく」に繋がる。その結果、たまたま遠足先でみーくんと出会い、彼女を救出することになる。

 一方アニメでは、うどんを食すシーンを遠足の後に回したため、うどんを切らした理由が「種類重視で選んだから」に改変されている。奥歯に物が挟まったような、度し難い台詞だ。みーくんを発見する前に補充したハズなのに、4人分のうどんが用意されているのは何故だ、種類重視とはいえたった1回分しか補充しなかったのか、等々の些少な突っ込み所はさておき、ここで1つ致命的な問題が浮上する。

 それは、アニメ版では“うどんを補充する”という理由付けがなされないまま、由紀が「なんとなく」遠足に行こうと言い出したことである。この時点で由紀の遠足提案は単なる我侭でしかない。後にくるみはこれを「由紀は何故か本当にそれが必要になったとき、こういうこと(遠足や運動会など)を言い出すんだ」(第6話)と説明した。しかしアニメ版では、遠出の必要性をくるみやりーさんが唱える場面はない。ならばその必要性は、由紀本人の内なる声が示した道に他ならない。つまりアニメ版由紀は、まだ顔も知らないみーくんを救出するために遠足を提案したのである。まさか第6感か超能力で無意識にみーくんの危険を察知した、とでも言いたいのだろうか。

 原作では上述の通り、遠足がみーくんの救出に繋がったのは結果論である。由紀は「購買では買えないもの*2を調達したい」というりーさんやくるみの要望へ応えるために遠足を提案した。つまり原作の由紀は彼女なりに学園生活部に貢献しようと「頑張って」いる。妄想の世界に逃げながらも、彼女は自分にやれることを精一杯やっているのだ。これは、のちの喧嘩イベントでみーくんが導いた結論*3に、説得力を持たせるための具体例だ。

 しかしアニメ版の由紀は第6感で誰かの危険を察知する超能力者にされてしまった。言い切ってしまうが、この由紀は断じて「頑張って」などいない。彼女はくるみやりーさんに養われながら、ただ自由気侭に振舞う。その過程で第6感が発動して、たまたま部に必要なものを提案すると、くるみやりーさんはその恩恵に預かる。これを共依存と言わずして何と言う。そのくせ、由紀の第6感は何故か圭ちゃんを助けなかった。くるみの言う「必要なもの」に圭ちゃんは入っていなかったのだろうか。考えれば考えるほど杜撰な設定だが、みーくんはあっさりと受け入れてしまった。そのせいで、アニメ版のみーくんは由紀について真面目に考えていないとすら感じられる。

 現状、アニメ版の由紀は少し勘のいい池沼幼女にしか見えまい。紛うことなき足手まといだ。原作のみーくんがこの惨状を目の当たりにしたら、一弾指の迷いもなく退部を決めるに違いない。由紀のCVを担当した水瀬いのりさんは彼女を主人公*4だと言った。主人公の扱いがこれでいいのだろうか。

 畢竟、由紀が「能動的」に学園生活部へ貢献しようと頑張っていることが描かれないと、彼女の魅力は視聴者に伝わらない。そのためには、由紀本人が自分の役割を口にする場面を設けなくてはならない。そればかりは第三者が口を出せる問題ではないからだ。原作でみーくんが由紀を連れてバリケードを越えるシーンを思い出して欲しい。介入しようとしたりーさんを、くるみは制止した。第三者が介入したところで意味はないと、彼女は知っていたからだろう。

 そんな気配りのできるくるみがアニメでは、口頭でベラベラ由紀の役割を説明するという暴挙に出た。原作とは丸きり真逆の対応である。以前からくるみについては、原作と別人のような言動が散見されると思っていたが、さすがにこの描写には心底驚いた。そこまで改変して由紀を池沼超能力者に変えたメリットはどこにあるのか、私には皆目検討も付かなかった。

 そして先日、がっこうぐらし!8話が放送された。なんとその8話で早速、由紀の超能力が発揮された。該当シーンを抜粋する。

「そこはもうさっき探したハズだけれど……」

「そう思うでしょ?」

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「飾り板だったのね……」

  アニメ版由紀お得意の第6感がめぐねぇの飾り板を看破している。言うまでもなく、このシーンはアニメオリジナルだ。原作ではくるみとりーさんが、みーくんに1人でめぐねぇの戸棚を調査させる。

 アニメではみーくんが実にあっさりとくるみの説明を受け入れたため、原作より早く学園生活部との心の距離が縮まる。特にアニメ版のりーさんとみーくんはかなり親密な関係を築いている。6話で2人が握手をするシーンは、原作で由紀とみーくんが握手をするシーンのセルフオマージュだろう。この演出から私は、原作における由紀・みーくんの距離感と、アニメにおけるりーさん・みーくんの距離感はほぼ同じであると考えている。これだけ親密な相手にめぐねぇの戸棚の調査を丸投げしたら、明らかに不自然だ。故に制作陣は「りーさんとみーくんの2人で調査する」という展開を選択したのではないかと考える。

 2人で調査するには、その切欠も2人で共有しなければならない。それが第7話で出てきた「職二金」の鍵だ。鍵を隠していた以上、アニメ版のめぐねぇは相当強い意思でマニュアルを隠匿していた、ということになる。だから鍵の他に何かしらのギミックを用意していたとしても不思議ではないだろう。また、作劇の一貫性という観点で見ると、アニメ版がっこうぐらし!にはホラー要素の定番ネタ*5が多々仕込まれている。今回の飾り板もホラーゲームにありがちなギミックだ。

 この飾り板という選択は絶妙なラインだと思う。探す側にとっては見つけにくい仕掛けでありながら、めぐねぇ自身が解除するのは容易い、お手軽ギミック。マニュアルを見つけたあとのめぐねぇは精神的に追い詰められている筈なので、本当は仕掛けを考える余裕があるとは思えない*6のだが、飾り板ならギリギリ許容範囲だろう。(例えばリトバスEXに出てきた隠し板のような「推理を必要とする仕掛け」はアウト。めぐねぇ意外と余裕だったんだね(笑)と言われても文句は言えまい。)

 そして、その程度の簡単な仕掛けならば、由紀の第6感設定を活用することで、テンポを損なうことなく、仕掛けを解除して話を前に進めることが出来る。同時に、解除する前にみーくんとりーさんが手詰まりに陥る展開を挟むことで、めぐねぇの仕掛けがきちんと機能している、つまり彼女はそれだけマニュアルを隠したかった、という無言の訴えも恙無く表現されていると感じた。

 仕掛け板の件だけでなく、遠足の提案も由紀の第6感設定が活用された例の1つだ。4話が放送されていた頃、アニメ版初見の方が「遠足へ行く意義が分からない」と言っているのを見た。至極もっともな意見である。しかし後に「由紀の第6感がみーくんの危機を救った」と説明することで、意義ではなく由紀のセンスが全てだ、という理屈が正当化される。力技ではあるが、“アニメがっこうぐらし!”という枠の中では、1本の筋を通すことに成功していると言える。

 つまり由紀の第6感設定には、一見不自然に見える作劇を「由紀が察したから」の一言で強引に押し進めることが出来る、という野蛮かつ強力なメリットがあるのだ。雑といえば雑だが、これにより作劇の選択肢が大幅に広がるのは間違いない。

 しかし、仮にこの私見が正しかったとしても、現時点*7では、このメリットが十分に――上述のデメリットを埋め合わせるほどに、活用されているとは思えない。

 全ては後の祭りだ。由紀を怠惰な超能力者にしてしまった事実は覆せない。ならばいっそ、今後の話数ではできるかぎり、由紀の超能力設定をモリモリ作劇に組み込んでいくべきだ。必然性を訴えれば、それだけメリットが加算されていく。これだけのデメリット(負債)を払いきれるとは思えないが、見事にそれを覆して欲しい。とはいえ無論、やりすぎて話がこれ以上破綻しては本末転倒だ。その辺は監督やシリーズ構成のバランス感覚と計画性が問われると思うが、さてどうだろうか。

 私は原作改変=悪と言っているわけではない。改変した結果、別物としてまともな筋の通った作品が出来上がるなら、それはそれでいい。その点、がっこうぐらし!の改変は中途半端でなく、原作の構造を抜本的に取り壊して全く新たな作品「アニメがっこうぐらし!」を作ろうとしている姿勢が見られる。だからもしかすると、残りの4話で由紀の魅力をきちんと描いてくれるかもしれない。

(いや実際、そうしないと話も進まないしな……。バットとケミカルライトで武装してシャッターの外に飛び出すシーンとかどうするの。でも、9話の水着回って嫌な予感しかしないんだよなー。くるみもりーさんも、めぐねぇのことが心配で暢気に水着で遊べるような精神状態ではない筈だが……。)

 と、とりあえず私は、1人の原作ファンとして最後まで見守るつもりだ。

*1:だからってOPのアレンジまで流すことはないと思うが。正直、あれはギャグにしか見えなかった。

*2:勿論、うどんだけではない

*3:「あの人も頑張ってました」

*4:ちなみに私は由紀のことを主人公というよりトリックスターだと思っている。

*5:或いはBGM

*6:原作では戸棚に戻して誤魔化すのが精一杯だった。

*7:8話まで

たまゆら~卒業写真~ 第1部 “芽-きざし-” を拝見したので。

「おかえりなさい、ぽって」

 

 そんな一言が胸の奥から込み上げてくるような映画だった。もあぐれっしぶの冒頭よろしく、ぽってのモノローグが流れたとき。ずっとその一言が脳裏に浮かんで離れなかった。

 ここ数ヶ月、私はたまゆらの映像や音楽から自身を切り離していた。1期や2期を見て復習するのも控えた。何か大した狙いがある訳ではない。ただ、彼女たちに「おかえりなさい」と言いたかった。

 再開の喜び。“始まり”への期待。

 1時間を通してこの身を包んでくれた、優しくて暖かい、得がたき幸福感と随喜の涙。それを感興の赴くままに振り返ってみたい。

 そんな訳で、この記事はネタバレ有りです。ご了承下さい。

 前置きはここまで。では――――レッツフォト、なので。

 

 

 

 さて、まず気になったのは、ぽってが被写体たる蝶にふらふらと近寄り、そのまま欄干から落ちそうになる場面。たまゆらシリーズのお約束。

 

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 皆さんおなじみ、ぽってのお家芸。

 私が求めていたものを早々に見れた。嬉しいの一言に尽きる。

 直前のシーンの構図も好き。自転車に跨ったぽってを後方、低めのアングルから映す。映画だから映えるダイナミックな画角。その上、脚の描写に妥協がない。

 滋味掬すべきカットが続いて、心が昂揚するのを感じました。

(求めていたものと言えば、幼少期のぽってが見れたのも嬉しい。)

 

 

 そして新キャラの登場。これまた可愛らしい娘が2人。

 とりわけ巧美ちゃんのプロ志向は、ぽってを進路の選択へと駆り立てる推進剤になる。そしてこういうときに高い決断力と行動力を発揮するのが、ぽって「らしい」ところ。

 竹原に戻ったとき。写真部を作ったとき。

 きっかけさえあれば、あぐれっしぶに前へ進める。積み重ねてきた思い出を、自らの成長へと繋げることが出来る。これはぽっての長所。個人的には才能と言いたいぐらい。

 余談になるけど、エンディングの影絵の動きは彼女のこういった側面を存分に表現していたと思う。ぽってを先導していたお父さんの手が、唐突に彼女から離れてしまう。名残惜しそうに父の面影に手を伸ばすのもつかの間、すぐに引っ込めて、その両手をまんじりと見つめる。その上でもう一度、父――天上の星に向けて、その手を伸ばす。誰に憚ることなく、堂々と。

 シルエットの幼さから判断すると、これは父を喪った直後のぽってをイメージした影絵と思われる。この少女は哀慕に沈みながらも、心のどこかで父との思い出を受け止め、信ずるべき道標を心得ていたのかもしれない。しかし、それを直視するには、心の傷に慣れるまでの時間が必要だった。汐入で思い出の品を封じたのは、その反動による逃避衝動ではなかろうか。

 人間、逃げられないモノだからこそ、そこから逃げたくなるときが往々にしてあると思う。ぽってにとって、それが「父との思い出」だった。手を伸ばすと決めた天上の星だった。裏を返せば、ぽっては人一倍“思い出”を大切に出来る少女であり、“思い出”こそが彼女の歩む道を照らしてくれるのだと。ぽっての人生を追想しながら、双眸に涙を湛えてあのエンディングを眺めていました。

 閑話休題

 この年頃の少年少女は、自らの経験や研鑽(つまり“思い出”)を持て余してしまうのが普通なんじゃないかと思う。ぽって部の3人はそれこそ典型的で。彼女たちはそれぞれの立場で「迷い」を吐露している。麻音ちゃんは選択肢の多さに、のりえちゃんは実現の方法に。かおたんはまだ考えていない。*1

 それが当たり前だと思う。まだ迷っていい時期なのだから、存分に迷ってほしい。ちなみに私は、迷っている女の子は好きですよ。人間味に溢れていて可愛らしい。決断できる女の子には好意より畏敬が先に来る。*2

 その点、ちひろちゃんとともちゃんには恐懼を禁じえない。だって海外留学を高校3年生の春の時点で決めているのだから。ただ、(あくまで憶測ですが)これは過去の経験から海外留学を決めたというより、「今まで手を付けなかったことを、新たにしてみよう」という発想が起点なんだろうと思う。だから“思い出”を成長の糧にするぽってとは全く別の道に見える。それはそれで1つの選択だけど。巧美のプロ志向と同様に、ぽってにとって良い刺激となることは間違いない。

 高校生たちが進路選択に悩むなか、かなえ先輩は何処に向かっているのかよく分からない(笑)

 他にやりたいことがないのか、単に暇だったのか*3、或いは生来の人の良さが災いしたのか、さよみさんの勧誘へ二の句を告げずに同調する。

 映画にも出るとは聞いていたけど、写真に関する案件で出てくるとばかり思っていた。蓋を開けてみると、まさかの怪しい占い師さんと化していた。かなえ先輩ファン*4としては驚天動地である。加えて、あの衣装が無駄に似合っている。あのあの、えとえと、という少しコミュs……ミステリアス(?)な雰囲気にピッタリなんですよ。私も、ももねこ式スクライングで占ってほしい。*5

 まあ冗談はさておき、彼女の存り方は「写真好きが写真以外の道を歩むこともある」という模範例であり、その柔軟性を以ってぽっての夢――写真だけでなく「旅行」を視野に入れたい、という願望を肯定している。かなえ先輩の専攻は宇宙科学と、これまた写真との関連を意識したのか否か、よく分からない選択だ。だがそれでもいいのだと、先輩として示してくれたおかげで、ぽっては気楽に自分の夢を見つめ直すことが出来たのではなかろうか。

 加えて、かなえ先輩は今回の志保美さんと同様に、ぽっての「写真家としての先達者」*6であり、それでいて彼女の元から去ってしまった人。あの夜、囲炉裏の傍で交わした別離の睦言が、ぽっての脳裏をよぎったとしたら……。

 

 

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「やり残したことがいっぱい……」

 別れを前にして、ポツリと口にしてしまった後悔。

 蚊の羽音よりも小さくて、今にも消え入りそうな声だった。

 それを――

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「やり残したことなんてありません……!」

 優しく、偽りのない言葉で受け止めてくれた人がいた。

 今の自分はどうだろう。

 志保美さんに言いたいこと、聞きたいこと――“やり残したこと”がきっとある。だから、かなえ先輩がしてくれたように、私も“別れ”を受け止めなくてはならない。

 

 

 こんな感じで志保美さんと向き合う覚悟を決めたんじゃないかな、などと考えているわけです。

 かなえ先輩と再会する直前、人混みの中に志保美さんを見かけたとき、ぽっては思わずその場から逃げてしまった。そのシーンを受けて、CVの竹達さんは「志保美さんの存在がそれだけ大きなものなんだなと感じた」と語っている。

 大きなものと向き合うことは、つまり、矮小な自分*7を直視すること。大きなものを失うことは、つまり、それだけの“がらんどう”が心の中に広がるということ。受け止めきれない。でも、受け止めなくてはならない。懊悩するぽっての背中を――それも逃げ出した直後というベストタイミングで――押してくれた存在。それがかなえ先輩なのである。

 離別の思い出が、新たな離別と向き合うための勇気の源になる。“卒業写真”と銘打つだけあって、やはり物語のテーマはそういったところにあるらしい。ここに来てようやく「ああ、やっぱり終わってしまうんだな……」と実感した。ぽってと同じように、私とたまゆらーの皆さんは“たまゆら”との離別に向き合わなくてはならないのである……。*8

 

 

 本筋の話ばかりしても疲れるので、作画とか構図の話をしましょう。

 私が気になったのは3点。

 1つ目はぽってが皿をキッチンに乗せるシーン。劇場で感心したカットであり、それがパンフレットでも言及されていることを知って、やはりなと得心が行った。

 パンフレットでは曲がりの表現が難しいと書かれていた。それも瞠目に能う作画なんだろうけど、個人的には、重ねた皿を台所越しにお母さんへ渡すときに、ぽってが上半身をカウンターに乗せて、テーブル席側へお尻を突き出すような姿勢になるカットが大好き。遠めのアングルだけど、後姿だけでぽっての一生懸命さが伝わって来た。4人分の皿を一気に運ぶのはしんどかったのかな。

 SHIROBAKOで人が物を重そうに運ぶ作画は難しいと言われていたのを思い出す。ガルパンの作画注意事項にも「キューポラの蓋は重そうに開ける」という一文があり、4話でM4を追い駆けるシーンを見ればそれは一目瞭然。そういう理由で、私は重さの描写に拘るアニメが結構好きなのである。

 重さの描写と言えば、お茶のお代わりを貰いに行くぽってが、ポットを重そうに運んでいた。あのシーンは単純に「よいしょよいしょと懸命に運ぶぽってちゃん可愛い(*´ω`*)」と和むのも有りだが、実は別の視座で楽しむことも出来る。

 ぽってがお代わりを貰いに行ったのは、彼女の異変に気付いたちひろちゃんの詰問を避けるため。咄嗟にポットを持って席を離れたが、その中身を確認する暇はなかった。(そういう描写は無かったはず)しかしその中には多量のお茶が残っていて、ぽっての想定以上に重かったのである。

 意表を突かれて浮き足立ってしまったのだろう。裏を返せば、それほどまでに志保美さんの存在が彼女の中で大きかったのだ。それを「ポットを重そうに運ぶ」という描写だけで表現する。

 素晴らしい。言外に語る表現は私が最も好む見せ方の1つです。*9

 そういえばポットのシーンで思い出したのだが、本作はカメラのピントのように、“ぼかし”で奥行きを演出する場面が多い。冒頭のぽってが蝶に釣られるシーンしかり、ポットのシーンしかり。

 例えばファフナーEXODUSでは奥行きを使ったカメラワークが散見されたが、どれも画角を開いたり絞ったりすることで手前と奥を区別していた。一方、たまゆらでは画角を維持したまま、ピントを調整することで奥行きを表現している。

 前者は動的、後者は静的。

 臨場感を採るか、情緒を採るかの違い。加えて、ピントによる演出はカメラを彷彿とさせ、実にたまゆらしい画面作りだと思う。

 ……すみません、びっくりするぐらい話が横に逸れましたね。閑話休題

 2つ目は、Cafeたまゆらでぽって部とぽっての4人がスイーツを食すシーン。アングルがテンポよく切り替わり、ただ会話しているだけなのに全く飽きない画面構成。その中でも特筆して語りたいのは、カウンター側(珠恵母とおばあちゃん視点?)にアングルを置いて、遠めに4人を映すカット。世に言う「一点透視図法」というヤツでしょうか。“ぼかし”やカメラワークではなく、一枚の絵で奥行きを表現する。

 ともちゃんと巧美が意気投合して他の皆が呆気に取られるシーンも、同じような構図。画面左側――つまり下手を手前に、上手を奥に描く。双方の画面構成を比較すると、どちらも「会話がヒートアップしている集団」を上手奥に置き、「それを遠くから眺める視点」を下手手前に置いているのが分かる。

 視聴者の視点は後者に近く、さながら3Dのような立体感で上手奥の対象を見ることが出来る。……まあ所詮は私見なので、本当にそういう狙いがあったのかは分からない。だが例のシーンを劇場で見たとき、少なくとも私は、定点カメラとは思えないほどの立体感に感嘆の溜息が零れたのである。この表現もやはり、映画であるが故に映える演出なのだろうか。

 3つ目はスイーツの作画。

 とにかく「美味そう」。その一言に尽きます。

 おばあちゃんの新作スイーツ。のりえちゃんの筍スイーツ。

 文章では表現できない魅力がたっぷりと詰まった作画。巧美ちゃん(すずねえだっけ?)が筍スイーツにスプーンを差し入れたときの、スイーツの動き、光沢、スプーンの入り具合から伝わる柔らかさ。食品サンプルのような嘘っぽさはなく、光沢や動きを誇張して妙なエロティシズムを孕むこともない。ただ「美味そう」なスイーツ。

 たまゆらシリーズに出てくるスイーツを集めて、作画を比べてみるのも面白いそう。のりえちゃんの成長のほどが伺えたりするかもしれません。

 

 

 次の話題はキャラクターデザインについて。

 1期、2期と同様に飯塚晴子先生が担当された。他の人に変わらなかったことを、まず喜びたい。映画は時間が短い。例えば俺ガイルのように絵柄が変わると、順応するのに暫く掛かる。その間に抑えておくべき事項を見逃したり聞き逃すのは、勿体無いし致命的だ。

 それに何だかんだで息の長いシリーズで、しかもこれで最後なのだから、“分かっている人”にやってもらいたい。その結実と言うべき……なのか分からないが、2つほど改良点を見つけた。

 誰もが気付くことだが、高3組がみんな大人っぽくなっている。ポニーテールを止めてショートヘアにしたかおたん。ツインテールからおさげにしたのりえちゃん。髪を伸ばして少し色っぽさが出た麻音ちゃんとちひろちゃん。そして胸が大きくなった(そもそもデカい?)ともちゃん。*10そういった容姿だけでなく、表情からもあどけなさが減ったように感じた。

 その中で、ぽってだけは変わらない。上述したように、ぽって以外の高3組はまだ迷いがあったり、或いは、迷う段階を通り過ぎた。一方でぽっては“思い出”に根付いた夢を見据えているので、初めから迷う余地がなかった。この僅かな違いが、身なりや体裁にも表れているんじゃないかと思う。

 迷いを克服するためには大人にならなければならない、みたいな固定観念が「大人っぽさ」を生み出したとするなら、ぽっては「幼いまま」で夢を追いかけようとしているように見える。その在り方はまるで彼女のお父さんにそっくりだ。*11思えばかなえ先輩も、大学生活が始まったと言うのに、どこにも変わった点は見当たらない。ヘアゴムの球の色が変わったような気がするけど、言ってしまえばその程度である。なるほど、写真家という生き物は幼年の心を忘れないまま育つ傾向にあるのかもしれない。

 もう1つは上述の変化と比べれば小さいものだが、個人的には嬉しい改良である。もあぐれっしぶに比べて、目の下の睫毛が控えめに描かれているのだ。

 たまゆらの作画と言えばこの睫毛だと思うのだが、もあぐれっしぶでは少しやりすぎだったと感じる瞬間が何度かあった。特に第7話、皆で汐入に行く回では睫毛に違和感を覚えて、本編に集中できなかったという苦い記憶がある。

 そうでもないという方もいるだろうし、実際、気になったという人はリアルでもネットでもあまり見ない。なので本当に個人的な喜びである。(……いや、そもこれはキャラデザではなく原画マンの仕事の差という可能性もあるのだが。)

 

 

 

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 日の丸写真館の店頭を飾る一枚の写真。幼年のぽってが父を撮ったモノであると言われていたが、「いつから」「どんな意味を込めて」飾っていたのかについて言及されることは無かった。ぽって本人が今まで聞かなかったのだから、当然と言えば当然である。それを本作では詳らかに語ってくれた。

 たしかに、白い斑点みたいな謎の模様が多々映っていて、肝心の被写体は逆光で見えにくい……そんな写真が現像されたら、落ち込むのも無理はない。それを「大丈夫」と肯定してくれた父の言葉。写真家ぽっての原点である。それを写真館の店頭に飾るという行為は、マエストロがぽっての帰来を信じていた何よりの証拠だ。

 そしてそれ以上に嬉しいのは、マエストロが「いい写真ですよね」と言ったこと。彼は純粋に自分の好きな写真を店頭に飾りたかっただけなのかもしれない。そして、それが帰ってきたぽってを迎える準備になるということを、知った上で飾ったとしたら。かくも幸福に満ちた「おかえりなさい」を私は知らない。それに同調するように、お祖母ちゃんはぽってのための着物を用意していた。

 hitotose1話でぽっては「この街がずっと待っていた気がした」と言っていたが、それは紛れもない事実だったのである。お出迎えをかおたん1人に任せるのも優しさだと思う。マエストロもお祖母ちゃんも、本当はいち早くぽっての顔が見たかっただろうに。それぞれの場所で待つことを選んでくれた。

 「おかえりなさい」をアレンジした劇伴とともに、人々の真心を丁寧に描写していくスタイル。さすが“たまゆら”。肺腑に染み渡るような優しさである。

 

 いよいよ語ることも無くなってきた。残る題目はあと1つ。

 長くなって申し訳ないけど、もう少しだけお付き合いください。

 

 最後にまた本筋――ぽっての“卒業”について話そう。

 本作の山場、志保美さんとぽってがお抱え地蔵のそばで話すシーン。

 かなえ先輩との再会シーンから流れを追って考えたい。上述したように私は、この再開シーンを見たとき、もあぐれっしぶでの離別シーンを思い出した。だから当然、志保美さんとの会話も、かなえ先輩との離別シーンと対比しながら見ていた。

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  例えばこの表情。

 笑うでもなく、悲しむでもなく。ただ相手の言葉に耳を傾ける、純粋な誠意。だけど無表情ではない。全てを受け止めようとしたら心を空にするしかない、みたいなニュアンス。うーん……難しい。読者の方に伝わっている気がしない(笑)

 裏を返せば、心の底から相手に求めている。だから、何に替えても本当に尋ねたいことがあるとき、その相手に向けてこういう表情が出るのだと思う。

 そして志保美さんとの会話でも同じ表情をするカットがあった。*12

「もう、会えなくなっちゃうのかなとか……」 

 この台詞を口にする直前まで、(具体的な台詞の内容は忘れてしまいましたが)ぽっては懐かしむような表情で“思い出”を語っていた。その一連の台詞の最後に、ぽってが本当に尋ねたかったことを吐露した。このときの表情はやはり、純粋に相手の言葉を求める、あの顔だ。

 その問いに志保美さんが答えてくれる。ここまでの流れは、かなえ先輩と会話したときと同じ。そして、ここからの会話にぽっての成長が見える。志保美さんの答え――彼女の夢に対して、ぽってがきちんと自分の答えを返した。

「でも、もう大丈夫です。志保美さんの夢のお話が聞けたから。」

 かなえ先輩が「やり残したことなんてありません……!」と言ってくれたときは、その言葉を受け止めるだけで精一杯だったのだろう。瞳に涙を湛えてかなえ先輩の顔を見ることしか出来なかったぽって。

 そんな彼女がいま、志保美さんという憧れの人が抱いた夢を知り、受け止め、更に自らの胸懐を笑顔で(でも照れくさそうに)語る。その顔が別れ際のかなえ先輩の表情と重なって見えた。相手の言葉を優しく受け止めて、自分の気持ちを口にする。いつかかなえ先輩がしてくれたことを、今度はぽってが再現している。

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 そのときぽっての脳底には、お父さんの姿がリフレインしていた。唐突に目の前からいなくなってしまった父親。彼には何も伝えられなかったけれど、志保美さんには、いなくなる前に聞くべき言葉を聞き、伝えるべき言葉を伝えられた。その喜びと尊さを、ぽっては心中で噛み締めていたんじゃないかなと思う。

 ちなみに監督は父親のリフレインについて「志保美さんがいなくなると聞いた楓がすごく不安になったのは、無意識のうちに、急に父親がいなくなったときのことを重ね合わせていたからなんじゃないかと感じて。*13」と言っていた。

 なるほど。そう考えると、かなえ先輩との会話で“やり残したこと”を気にしていたのは、“やり残したこと”がたくさんあるのに、唐突に目の前からいなくなってしまった父親とかなえ先輩とを重ね合わせていたからなのかも。*14

 でも志保美さんとの“やり残したこと”はもう無いはず。出逢ったときのように写真を撮り合う、2人の子供のような笑顔。志保美さんの「想いのバトンが繋がった気がする」という言葉。それが全て。ぽっては本当に成長したんだなと実感した一時である。

 

 

 4月18日に映画を拝見してから10日ほど。

 たまゆらのことを考えながら(内容を思い出しながら)、暇を見て少しずつこの記事を書いてきた。中々に幸せな10日間だったなと思う。まさに一唱三嘆。優れた作品に何度も感嘆し、感興の赴くままにその心を記す。こういうことがしたくて、twitterとかブログをやっているんです。

 ただ考えれば考えるほど、ぽってが“卒業”に向けて着実に歩みを進めているのが分かってしまう。もっと言えば、シリーズそのものが「締め」に取り掛かろうとしている。

 ファンとしては嬉しいやら悲しいやら。

 ツイッターで「たまゆらの次回作は見たくない。でも出たら絶対見る。」という意見を見て、やっぱり同じ気持ちの人はいるんだなと。終わったあとに「殺す気かよ」と呟いた人もいるらしい。

 きっとサトジュン監督は1年単位でたまゆらーをじわじわと○す計画なんでしょう。

 そうは言っても8月の第2部公開が楽しみで仕方ない。キービジュの麻音ちゃんの立ち姿が凛々しくて好き。かおたんの進路もそろそろ明かされる頃かな。

 この1年はたまゆらーとして、複雑な気持ちを抱えたまま過ごすことになりそうです。

 

 

 

  

*1:但し、彼女は「口にしていないだけ」という可能性もあると睨んでいる。今はまだ皆には黙っておこう、と。かおたん呼びに反応しないのも怪しい。

*2:溺愛する対象はまた違うんだけど、ここでは控えます。

*3:そういえば高校時代、ぽってたち以外に友達がいる描写はなかったような……大学でも(ry

*4:「ぽてかな」という名前から、誰推しなのか分かりますよねw

*5:公式HPに「かなえ先輩の1日1回占いコーナー」とかつくりませんかね。結果をツイートさせれば宣伝にもなりそうだし。

*6:写真歴はぽっての方が長い。でも本人がかなえ先輩を写真の上級者として見ている節がある。何と言っても写真部を立ち上げるきっかけを作った人だから。

*7:特にぽっては自分の在り方や行いをネガディブに捉える節がある。「やり残したことがいっぱい……」もその一環なのかな。だからこそ、人との“思い出”を大切に出来るのかもしれない。……自分ではなく、人との関わりを。

*8:逃げてもいいですか

*9:所詮は私見なので、本当にそういう狙いがあったのかは分からない。あのポット、滅茶苦茶デカかった(ぽっての胴体と同じぐらいの高さ)し、空でも重そう。

*10:最後のは「大人っぽくなった」と言っていいのだろうかw

*11:たしかテレビシリーズで、お父さんは少年の心を持ったまま大人になった、みたいな言及があったと記憶している。嘘だったらすみません。

*12:パンフレットで監督が言及されていますね

*13:「感じて」と言っているのが素敵。ぽってをキャラではなく人として見ているんだね。

*14:それを踏まえると「初日の出までは、かなえ先輩……写真部ですよね?」という台詞もまた違って聞こえるような気がする。

ゆゆゆの東郷さんが壁を壊せた理由

 壁の外に広がる真相を知ったとき、東郷美森は四国全体を巻き込んで無理心中を図った。その背景には友奈への愛情だけでなく、世界観や状況の設定が深く関わっていると私は考えている。彼女は、四国を滅ぼすことで人が大量に死ぬという状況を――喩え理解していたとしても――「実感」できる環境にいなかったのではないか。その論拠を2つ挙げて説明したい。

 まず1つ目はゆゆゆ時空における四国の脆弱性である。
 本作品における四国は「壁を壊して神樹を爆撃する」という作業を完遂するだけで滅んでしまう。人々の脳髄を撃ち抜いて惨殺したり、極太の砲塔で磨り潰してミンチにしたりする必要もない。四国滅亡の過程で人々の死体を直視する心配がないのである。東郷美森は自分の行為が死体の山に繋がることを理解していても、実感する機会がない。殺人の手応えを実感することなく、人々を虐殺することが出来る状況そのものが凶行への足掛かりとなったと推察する。

 2つめは、神樹によるモラル統制である。
 ゆゆゆ時空では神樹の影響でモラルの高い社会を形成しているという設定がある。こうした社会を維持するための施策として、所謂グロ画像が市民の目に入らないように規制している可能性が考えられる。そのっちの手記が検閲されていることから、ゆゆゆ時空のモラルが検閲と規制によって守られているのは明白である。
 東郷美森は右翼に近い思想を持つ娘なので、大戦の経緯を知る過程で人間の残虐性とその結果に触れる機会はあったと考えられる。しかし、それを臨場的に理解するための情報(画像や動画など)は全てモラル統制の元に規制されていた。そう仮定すると、壁を壊すことで生まれるであろう死体の山を東郷美森が明確にイメージ出来なかったのも無理からぬことである。百聞は一見に如かず。そうしたイメージは実物を見ないと得られないモノだろう。

 ところで、ナチスが人々を大量に虐殺することが出来たのは、残虐な人間がいたからではなく「罪悪感なく殺せるシステム」を作ったからだ、という考察がある。東郷美森のケースも同じことかもしれない。殺人の罪悪感が軽減される状況を設定することで、彼女の凶行に自然な流れを与える。非常に興味深い仕掛けであると私は考える。