ぽてかなの私見

「記憶は薄れるから、記録しておくんだよ」「記憶なんて生きるジャマだぜ」

【ゾンビランドサガ】星川リリィは何故まさおだったんだろうという話。

ゾンビランドサガのネタバレあり】

 

「星川リリィは豪正雄である必要があったのか」


 ゾンビランドサガ8話が放映されたとき、このような疑問に頭を悩ませた視聴者は少なくないだろう。私もその1人だ。話にインパクトを与える役割があったのは言うに及ばないが、果たして本当にそれだけなのだろうか。そんな疑念を抱きつつも、如何せん私はトランスジェンダーや男の娘という文化に明るくないため、なかなか自分の考えを形にすることができなかった。そして最終話の視聴を終えた今、性別云云に留まらずリリィの境遇や心情から改めて8話を読み直すことで、私は自分なりの答えを得た。本記事ではそれを話していきたい。まずは8話に対する私の解釈を説明する。


 星川リリィは2つの問題を抱えていた。


 1つ目の問題。それは「パピィに本当の自分を見て貰えなかった」ということだ。パピィは「テレビの中にいる自慢の息子」に目を向けるあまり「パピィの隣りにいる”本当のリリィ”」を蔑ろにしてしまった。大好きなパピィが自分を愛してくれない。大好きなパピィが自分の悩みと向き合ってくれない。この問題を解決するための必要条件は「生きる」ことだ。パピィが自分と向き合ってくれるまで、リリィは生き続けなければならなかった。


 2つ目の問題。それは「成長してパピィみたいになるのはイヤだ」ということだ。これに関しては、パピィが自分を見てくれれば解決、とはいかない。むしろパピィの存在自体がリリィの苦痛に繫がったとも言える。勿論これもパピィと共に乗り越えていくべき問題だったのかもしれない。しかし、それより手っ取り早くて身も蓋もない解決方法がある。「死ぬ」ことだ。そう、死ぬことで、星川リリィは永遠の12歳になれる。もう脛毛も髭も生えることはない。

 

 リリィはゾンビになることで後者の問題を解決してしまった。だから前者は永遠に解決できない。生と死の断絶がそれを許さない。ただ死んで無に還ったのではなくゾンビとして生まれ変わった以上、リリィはその事実を受け止めなくてはならない。ドライで大人びた一面のあるリリィの事だから、覚悟は決めていたのだろう。それは「パピィのことを忘れようとしていたの。」「ゾンビは成長しないんだもん。もう怖いものなしだよ。」「さくらちゃんみたいに何も覚えてない方がよかったのかな。」といった台詞からも伺える。死んだことで2つ目の問題を解決できた。その事実だけに目を向けて満足しておく。リリィらしいスマートな立ち回りだ。

 

 フランシュシュが嬉野を観光したとき、リリィは独り、豊玉姫神社で祈りを捧げていた。前後の流れを考えると祈りの内容は「今の綺麗な肌のままでいられますように」であると考えるのが妥当だろう。リリィの死因にも繋がる。しかし一方で豊玉姫様は子孫繁栄の神でもあると聞く。もしかするとリリィは「パピィが別の人と再婚して新しく子宝を授かって幸せに暮らしていけますように」と祈っていたのかもしれない。そうしてパピィが自分のことを忘れてくれればそれでいい。そして願わくば、自分もパピィを忘れられたら。そんなことを願っていたのかもしれない。

 

 それでもパピィは目の前に現れてしまった。パピィが自分をどれだけ想っていたかを知ってしまった。「自分もパピィの気持ちと向き合って来なかった」という事実を突きつけられた。もしパピィと共に生きて、自分から歩み寄っていれば、1つ目の問題なんて簡単に解決したかもしれない。そんなifから目を逸らせなくなった。

 

 この苦しみから解放されるためには、今こそ1つ目の問題を解決するしかない。パピィに今度こそ”本当のリリィ”を見てもらいたい。そして”本当のパピィ”と向き合えるようになったよと伝えたい。でも全ては後の祭りだ。「仕方ないよ。リリィ、ゾンビだし。」と項垂れるリリィに、それでも水野愛と紺野純子は答えを示した。*1

 

 それを可能にする存在が「アイドル」なんだよ、と。

 

 リリィはアイドルとして”本当のリリィ”をパピィの前で表現する。パピィは眼の前の偶像にリリィを重ねることで、リリィの想いを知ることができる。無論それは単なる虚像だ。本当は実像だけれど、パピィから見れば6号はリリィではないのだから、虚像でしかない。だから2人とも救われることはない。リリィが歌ったように”この胸に空いた隙間は埋まらない”。それでも痛みを癒やすことはできる。”愛は変わらないよ いつまでも”と伝えることはできる。こうして星川リリィはアイドルとして見事に自分と家族を苦痛から解放せしめたのだ。

 

 さて、8話に対する私の解釈を一通り話したところで、本題に戻ろう。

 

 星川リリィは豪正雄である必要はあったのか。

 

 リリィが抱える問題を一般化すると、1つ目は「周囲の人間が自分の気持ちと向き合ってくれない」という寂寥であり、2つ目は「時間の経過に伴い自分の価値が下がるかもしれない」という恐怖である。本来、これらは別々の問題であり、必ずしも干渉し合う関係にあるとは言えない。また、当然ながら、何方も性別云云に関係なく発生しうる悩みである。それをゾンビランドサガでは、性別関連の設定を主軸にして、2つの問題が絡み合う構図にすることで「リリィが生と死のコンフリクトを抱える」という状況を造り上げたのだと私は考える。

 

 もっと言うと、性別関連の設定が無ければ、家族愛だけをテーマにしていたならば、星川リリィはゾンビになった時点で苦悩していた筈だ。それこそ水野愛や紺野純子と同じように。だが彼女らと決定的に違う点は、リリィにとって「死」は必ずしもデメリットだけではなかったという点である。リリィはゾンビになることで、いつかパピィみたいな容姿になる、というリスクから逃れられた。そうしたメリットがあったからこそ、リリィはソレだけに目を向けることで、家族との断絶という哀しみから目を逸らすことが出来たのだ。それは言ってしまえばパピィへの裏切りである。故に実際にパピィと再開してしまったとき、その裏切りは大いなる後悔を伴って、リリィ自身へと跳ね返ってきた。そんな逃げ場のない心の軋轢を癒やすにはどうすればいいか。その問に対してフランシュシュは「アイドル」というアンサーを打ち出した。こうした一連の流れを以って、ゾンビランドサガ8話は「偶像」を肯定的に描いて魅せたのだ。

 

 だから星川リリィが豪正男であることには、少なくとも「意味」はあったのだ。一方で、本当に性別関連の設定を盛り込む「必要」があったのか、と問われると明朗にYesと答えることはできない。そして、その曖昧な立ち位置こそが、星川リリィというキャラクターを描く上で一役買っているのではないか、と私は結論付けた。少しややこしい話になるが、最後にそれを説明して本記事を終わりたい。

 

 私はこれまで性別云云の設定が物語の根幹にあるという話をしてきた。だが、本当の根幹は”生と死のコンフリクト”であって、性別の件は言ってしまえば、その状況を造り出すための舞台装置にすぎない。ゾンビランドサガ8話という物語の中心はあくまで親子愛であり、性別云云は枝葉末節でしかない。もちろん無くてはならない存在だが、代替可能なガジェットでもあるという事だ。そして、その不思議な立ち位置こそが作劇のミソなのだと私は考えている。

 

 この絶妙な立ち位置だからこそ、大方の視聴者もフランシュシュのメンバーも最初は「リリィがまさおである」という事実に驚きはすれど、話が進むにつれて、いつの間にか意識しなくなっていったのだろう。12話を見終わった段階で一体どれだけの視聴者がリリィ=まさお問題を気にかけていただろうか。要するに、そういう事である。性別なんてどうでもいい。”本当のリリィ”を見守ればいい。そうした方向へ視聴者の意識を誘導した作劇により、メタ視点においても星川リリィの願いは叶えられたのである。それでいて性別云云の設定が無ければ、リリィの苦悩は水野愛や紺野純子と同質のものになってしまうので”生と死のコンフリクト゛は発生することなく、物語は根本から崩壊する。この絶妙なバランス感覚こそがゾンビランドサガ8話の魅力なのだろう。少なくとも私はそう受け取った。

 

 以上が「星川リリィは豪正雄である必要はあったのか」に対する私の見解である。

 

あとがき

 次の記事では「なぜ源さくらが星川リリィに寄り添ったのか」という話をします。本当は本記事のオマケとして書き始めたのですが、思ったより長くなってしまったので別々の記事にしました。そう遠くないうちに投稿する予定なので、よかったら読んでください。

 

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 よかったら此方も見てね。

 

 

 

私信

> Cunliffeさん
> 12話を見た今の感想が読みたい。

 コメントありがとうございます。まだ12話の源さくらを咀嚼できた気がしないんですよね。考えが纏まったら書くと思います。

*1:「想いに応えろ」

【ゾンビランドサガ】源さくらは凡人だけど凡人じゃないという話。

ゾンビランドサガ11話のネタバレあり】


 ゾンビランドサガ11話の感想を見ていると、多くの方が源さくらを「凡人の代表」「現代病理の風刺」と評しているのを目にする。その度にこう、的外れではないが正鵠を射るとも言えないような、何処かモヤっとした気分になる。私の中では、寧ろ源さくらの生き様はフランシュシュの中で最も常軌を逸していて、とても我々のような凡人を代表した存在とは思えない。だけど一方で彼女が凡人と言われる理由にも心当たりがあるのだ。本記事ではそんな話をつらつらと綴っていく。

 

 源さくらはもとより「努力の天才」だった。ガタリンピックで明示されたように彼女は基本的に鈍臭い。6話で純子の帽子を取り損ねた件に鑑みても、身体能力は平均以下と言わざるを得ない。そんな彼女が努力だけで劇の主役を勝ち取り、努力だけでリレー選抜を勝ち抜き、学年1位のタイムまで叩き出した。これだけで既に常人離れした実績にも見える。それでも畢竟、努力の「程度」が並外れている、という話でしかない。積み重ねた努力の先に自己実現という報酬がある以上、彼女の「生き様」は至極真っ当と言える。少なくともこの時期までは。


 彼女の”生き様”は、2年目のリレー選抜から徐々に可怪しくなってくる。それまでの人生で、人より努力しながらも不運に苛まれ、自己実現に至らなかった源さくら。そんな彼女の内には、いつしか「リベンジ」という明確な目的が生まれた。何に対するリベンジか。言うまでもなく「宿命」だ。この頃から彼女の敵は、周囲の人間から、自分を戒める呪いへと変化していった。大事なときに限って自分を見放した神様に一矢報いる。ただそれだけのために、彼女は周囲の誰よりも努力を積み重ねた。報酬はない。自己実現など眼中にない。ただ目的を果たすために苦行に身を委ねる。その在り方が私には常軌を逸しているとしか思えなかった。


 それでも”リベンジ”を果たせなかったさくらは遂に決定的な狂気へと至る。中学1年の夏、齢13にして、彼女は”不運な人生を払拭するため”だけに中学時代という青春を丸ごと投げ捨てることを決意し、実行したのだ。


 一応、志望校に何かしら思い入れが在ったのかもしれない、という可能性も考えたが、恐らくその線はないだろう。志望校のパンフレットを読む源さくらの表情は何処か浮かない顔で、期待や憧憬といった感情は見受けられないからだ。少なくとも水野愛にときめいた瞬間のあの表情には遠く及ばない。むしろ「どうせ今回も報われないんだろうな」という諦念を堪えた、シニカルな笑みを浮かべているように見える。もしそうだとしたら、それはそれで恐ろしい話だ。報酬の有無どころの話ではない。目的を達成できない未来を予想しながら、それでも神の裁きに抗うためだけに源さくらの全存在を擲った、ということになるのだから。


 小学5年から中学3年にかけて、さくらは同級生から距離を取られるようになった。当然の結果だろう。なにせ本人が周囲の人間に目を向けていない。学年1位やA判定という実績が「神と闘うための下準備」でしかないのだから。この時点でさくらは、人と人の競争社会から逸脱し、たった独りで神話を繰り広げていた。そら近寄りがたいし理解もできまい。現に小学時代からさくらの近くにいた腐れ縁の松尾ちゃんですら、高校時代――つまりさくらが神との闘いを放棄してから、ようやく話しかけられるようになった。いや、勿論、それ以前にも話しかける場面は在ったのかもしれない。だが、A判定をとって喜ぶ中学時代のさくらに話しかけないシーンと、高校時代の無気力なさくらに馴れ馴れしく話しかけるシーンとで、明らかに2人の距離感が違うのは事実だ。

 

 そうしてようやく話しかけてきた松尾さんの言葉が「スポーツとか身体を動かすこと得意だったやん」なのである。もう何一つ理解していない。”持ってない”以前の問題だ。"得意"ではなく、得意と言われるまで必死に努力を積み重ねた、という絡繰りが在ることすら理解していないのだから。


 そして彼女の在り方を理解できないのは、フランシュシュのメンバーも変わらない。(徐福が絡むゆうぎりと詳細不明のたえに関しては断言できないが)なぜなら彼女らは皆、人との争いのなかで自己実現を達成し、伝説を創り上げたにすぎないからだ。それでも常人離れした実績であることは言うに及ばないが、源さくらの生き様はまた別次元だ。上や下ではなく、ねじれの位置にある。だから当然の帰結として彼女達が源さくらの神話を理解できる道理が無い。もちろん彼女達だって、理不尽な不運にぶつかり、それを自力で乗り越えてきた経験の1つや2つは在るだろう。だが、さくらの場合は、不運そのものが敵なのだ。だから喩えさくらが伝説を遺す可能性があったとしても彼女達とは順序が違う。神と闘う過程で結果的に伝説的な実績を上げる可能性はあっても、彼女達のように自己実現を伝説へと昇華させることはなかっただろう。


 源さくらはどうしようもなく孤独だ。だから巽幸太郎も彼女を無理に理解しようとはしなかった。一度、突き放したのも、俺はお前を理解するつもりなんてない、という意思表示だろう。その上で彼は「俺が持っとるんじゃい!」「だから!俺は!お前を絶対に見捨ててやらんッッ!」と叫ぶ。あの瞬間、私は初めて巽幸太郎の素顔を見たように感じた。普段の喧しい巽Pでもなければ、シリアスムードの静かで重々しい巽Pでもない。何故ならどちらも彼が意識的に創った「キャラクター」だから。でも、さくらへの叫びはきっと彼の本音だ。飾りようのない直球を満身の力でド真ん中に放り込んだのだ。源さくらの神話を理解することはできない。純子のときみたいに土足で上がり込むこともできない。だが、それがどうした。理解なんかしなくとも、その手を掴むことはできる。幾ら神がお前を見捨てようとも、俺はお前を見捨ててやらん!何故なら俺がデカくてスゴいもんを持っているからだ!!


 そんなストーカー紛いの自分勝手な言葉に、それでも彼女は何も言い返すことができなかった。分かっていたからだろう。源さくらの原点は決して宿命や神話などではないという事を。それらは後付の妄執でしかない。だから彼女はきっと自分の闘いへの理解なんて求めていない。


 ならば彼女は何を求めていたのか。それはきっと原点への回帰だ。もとより彼女は「努力の天才」だった。その先には自己実現という報酬があった。巽幸太郎の言葉は、その原点に源さくらを引き戻したのだろう。そして生前、巽幸太郎と同じ役回りを果たしたのが、他でもない水野愛だったのだ。


 高校時代に遡る。青春の全てを犠牲にした神への挑戦は失敗に終わった。さくらは全てを喪って生ける屍と化したが、同時に妄執からも解放された。有り体に言えば、肩の力が抜けた。このタイミングだからこそ、水野愛との出会いが響いたのだろうと思う。

 

 努力や失敗を踏み越えて自己実現を成し遂げた水野愛に、さくらは自分が忘れていた輝きを見出したのだろう。かつて彼女が目指していたもの。誰よりも努力を積み重ねた理由。「ああ。私はこうなりたかったんだ。」と、事ここに至ってようやく、自分がとんでもない回り道をしていたことに気付いた。「また1から再出発しよう。」そう思えたから彼女は、アイアンフリルのファンになって終わりではなく、アイドルになる自分を夢見たのだ。神と闘うためではなく、自己実現を成し遂げるために。極めて真っ当な形で新たな一歩を踏み出そうとした。


 だが神は容赦なく彼女を見捨てた。もしかすると水野愛との邂逅も悪趣味な図らいでしかなかったのかもしれない。あれはタイミングも含めて正に源さくらの人生で最初で最後の幸運だ。当然、さくらは飢えた獣のように食い付く。そうして高々と振り上げたグラスを、神は勢いよく地面に投げ捨てた。


 そうして彼女は、今度こそ理解したのだろう。源さくらの”努力”とは、グラスの高さを稼ぐだけの自殺行為に他ならない。生き様など関係ない。神話の登場人物として生きようが、真っ当に自己実現を目指して生きようが、自分の行き着く先はどうあっても砕け散ったグラスの破片でしかない。その諦念は「幾らあの娘が本物の水野愛だとしても、私がアイドルになんてなれるわけなか。」という台詞に詰まっている。


 そして源さくらが巷で「凡人」と言われる所以も恐らくここにある。どんな経緯があろうと、何も知らない人からすれば、敗者は敗者でしかない。何も成し得なかった。その一点で落伍者の烙印を押されてしまう。*1そして何よりさくらは自分自身に、そのような評価を下しているのだ。だから彼女は巽幸太郎の言葉を肯定しなかったのだろう。たしかに何も言い返せなかったが、それでも挑むように、問い質すように彼を睨み付けた。

 お前も私を敗者にしたいのか、と。


 だが、私から見れば、彼女は凡人ではない。いや凡人だけど。5年も回り道してようやく自分の夢の在り処に気付くほど鈍臭くて、どんなに無気力に苛まれてもテレビに出てきたアイドルに影響されてやる気を出しちゃうほどチョロい凡人だけれど、少なくとも”敗者”ではない。


 何故なら彼女はゾンビだからだ。もう既に神の裁きを覆してしまった。いま彼女が動いていること、言葉を紡いでいること、アイドルとして活躍していることこそが、神との闘いに勝利した証左なのだ。というか、もとより彼女は一度も負けていない。何故なら彼女はチョロいからだ。失意の底に居ますみたいな顔をしておきながら「アイドルとしてのお前を待つ者がいる」と言われただけで、ちょっと目を輝かせてしまうほどチョロいからだ。チョロいとは、言い換えると、どんな絶望のなかでも一片の希望を手放さない、ということだ。彼女が「努力の天才」たりえた所以もきっとそこに在る。自分は鈍臭いけど努力すればもしかしたら誰よりも上に行けるかもしれない。そんな楽観主義が彼女を「努力の天才」にしたのではないか。そしてチョロい人を本気で絶望させるのは至難の業だ。神でさえ命を奪わなければその歩みを止められないほどに。

 

 そして命を奪われたにも関わらず、それでも源さくらは歩みを止めなかった。

 寧ろ他の誰よりも早く、前に進むことを決断した。


 もういいだろう。私の本音を記す。源さくらの死は、諦めたまま無為に生きて、その当然の帰結として伝説を遺せなかった凡人の末路ではない。断じてない。こいつのチョロさを舐めて貰っては困る。彼女の死は、最期まで自分の宿命に挑みながらも、圧倒的な不運の前に絶筆を余儀なくされた未完の伝説だ。


 その続きを記すためには神の裁きすら覆すしかない。

 つまり、ゾンビになった今だからこそ、さくらの自己実現はきっと成就する。


 それでも神が見捨てると言うなら、巽幸太郎が、フランシュシュが、作中のフランシュシュのファンが、そしてアニメ「ゾンビランドサガ」のファンが、源さくらを見捨ててやらなければいい。天に牙を剥いて「何が神の冒涜か!裁きなどさせない!」と叫ぶ源さくらの闘いを皆で見守ってやればいい。


 そう、源さくらがゾンビとして生まれ変わり、その上でアイドルになった事には、ちゃんと意味があったのだ。(NO ZOMBIE NO IDOL とはよく言ったものだと思う。)

 

 だから最終話で巽Pには、源さくらを応援する全存在を代表してこう言って欲しい。

 


「伝説を創ってこい、源さくら。

 その名が天に焼かれようとも――俺がお前を見ている。」

 

 

*1:そうした構造を彼らは「現代社会の病理の風刺」と言ったのかもしれない。

アニメ「メイドインアビス」 雑感

 メイドインアビス見ました。

 

 ネタバレ感想です。思いついた事を書き殴る感じなので文章構成は気にしないで。

 

 非常に完成度の高い王道冒険活劇でした。前後の描写がしっかり噛み合っていて互いにエクスキューズとして機能しつつ、それでいて予定調和から半歩だけ逸脱する絶妙な裏切り。情念や涙腺に訴えられるというよりは冷徹で論理的な展開に舌を巻くことの多い作品だった。シナリオだけでなく背景美術や音楽、SEなどの要素が過不足無く主張しあっていてアニメとしても魅力たっぷり。しかし個人的にはキャラの独り言やモノローグが多くて気になったけど、さりとて”言外の語り”的な表現を完全に放棄していた訳でもなさそう。ミーティアの殺害を受諾したレグにナナチが左手を置いてやるシーンなんかは分かり易い例だよね。だから恐らく沈黙の美学を理解しつつ敢えて視聴者側に寄せるために説明的な字句を増やしたのだろうと私は推測した。それはそれで1つのスタイルとして(好き嫌いとは別に)尊重したいと思う。

 

 正直オーゼン編までは丁寧な作品だなと思いつつも予定調和の向きが強くて少々冷めた心持ちで見ていた。例えばオーゼンみたいなキャラが実は優しい人でした云々はハイコンテクストと言って差し支えない展開だし。他の展開も私の予想を遥かに超えるようなものは見当たらなかった。そんな訳でこの作品は堅実な造りを売りにしているのかななどと勝手に思い込んでいたのだが、そんな風に高を括っていたら直後の第三層、第四層への繋がりで一気に引き込まれた。

 

 リコとレグの繋がりを客観視点(オーゼン編)→主観視点(第三層)の二段階で描きつつ、そこまで丁寧に積み上げたモノを一瞬で完膚無きまでに粉砕する(第四層)という歪み1つない完璧な流れ。そしてコレはかなり悪辣な(褒め言葉)構成なんじゃないかと思う。最初の客観視点は視聴者側に近い言及だ。それを主観視点に繋げることはすなわち、視聴者をリコとレグの方に近付ける誘導レールのような役割を果たしているのではないかと思う。そうしてホイホイ引き込まれた哀れな視聴者の鼻っ柱に第四層での惨劇を叩き付けるという訳だ。理性的にも感情的にも逃げ場を潰されて、真正面から2人の痛みと向き合えるようお膳立てされている。

 

 そこで言及せねばならないのはやはり骨折の件。
 私は今迄の人生で何度か骨折を経験している。そのせいで骨折の描写には一家言あって例えば「折れてるのに意思の力で何ともなさそうな表情を保っている」みたいなパターンは余程ハッキリしたエクスキューズでもない限り個人的には認められない。そんな私から見てもアビスの骨折ダメージ描写は非常にしっくり来る。骨折シーンの白眉と言っても過言じゃないと思う。
 片足が捻れ折れたときの体験談を話そう。まず時間が止まるのよ。目の前の風景が異常にゆっくりと流れる。そんな奇妙な一時を最後に記憶が途切れる。そして自分の叫び声で我に返る。あの感覚。あれを客観的に見たらアビス10話の骨折描写になるんだろうなと感じた。ちゃんと折れる瞬間にはリコの時間が止まるような演出で、ワンテンポ置いてから悲鳴を上げる。共生キノコを抜くときには時間が止まるような演出が無かったことも併せて見て頂きたい。綺麗な対比になっている。それだけ骨折シーンを作り込んでいるということ。(更には表情や白笛を握り締める右手から意識を完全に手放したわけではない事も分かる。この辺は上述の「自分の声で強制的に起こされる」感じを表現しているのかリコの意志の強さを表現しているのか判断が付かないけれど。)

 

 このやたらと気合の入った骨折描写に何の意味があるのか。それは骨折という概念が第四層のシナリオの骨格を象徴しているからだと思う。
 今迄積み上げた2人の絆は惨劇によってリコの腕ごとズタズタにされた訳だけど、それがナナチとの絡みを経て更に強固な繋がりを生むという流れは「折れた骨がもう一度繋がることで元より強度が増す」という骨折の概念と完全にリンクしている。
そして骨折は時として重大な行動障害を残すこともある。リコ達も今回の件で何もかも元通りになった訳ではない。消滅したミーティア。動かない左腕。喪ったモノも色々ある。その象徴がリコの左腕の傷だ。そしてリコはレグとの絆の証として左腕の傷を受け入れた。
 治癒可能であるが故に可逆的でありながら、時として強化あるいは後遺症という形で不可逆の側面を見せる「骨折」という概念。言われてみれば人と人の繋がりの変化を描く上でこれほど象徴に相応しいものもない気がする。(言いすぎ?)そうした構造的な視座でも、この作品は骨折描写の白眉と言ってよいと思う。

 

 さて骨折の話は一段落したので余談。唐突に何の話だと言われるかもしれんが。
 個人的にボンドルドさんの在り方を特筆したいんですよ。五層で子供たちを使って実験をしている白笛のことね。(現時点での描写を見る限りでは)彼の研究者としてのスタンスはリアルの動物実験者にかなり近いと個人的に思う。被験体を本心から可愛らしいと思いつつ新しい可能性のためなら特に悪気なく消費してしまえる、この界隈では本当にありふれた狂気の沙汰。だから彼のスタンスには妙な納得感というか親近感を覚えちゃったりもする。(私もその手の作業に従事していたことがあるからね。)
 ただ人間性喪失ミーティアへの虐待は「被験体をなるべく苦しませない」という動物実験倫理の大原則に思いっきり反しているのでやっぱり単なるサイコパスなのかもしれない……。でも必要な実験なら痛みを与えることも辞さないのが動物実験者だし、そういう意味では之もリアルに近いスタンスと見るべきかも?問題は人の子供を実験動物扱いしている点だけど孤児院で家畜以下の生活を強いられる子供達を使っているので倫理観が致命的に壊れている訳でもなさそう。
 つまり何が言いたいかと言うと非常に厄介な人ですね!ということ。リコにとって。そして何より視聴者にとって。バイキンマンみたいな分かり易いサンドバッグでもないし、かと言って思想の狂いを指摘してスッキリすることも出来ない。現実にある範囲の狂気を誠実に描写している感じでこれまた逃げ場がない。これは今後の第五層での話が楽しみになってきますね……。

 

閑話休題

 さて現時点で来歴がハッキリしているキャラはリコとナナチの2人なんだけど、その2人とも生い立ちと人格形成がちゃんと噛み合っていて面白いなと思う。
 リコの好奇心旺盛な質がライザの放任主義により育まれたことは言うに及ばないので割愛。注目したいのはナナチのちょっと不遜気味なところで、あれは抑圧され除け者にされた過去からの反転でイキっちゃう癖が付いた結果なのかなと思っている。
 第五層の子どもたちの待機部屋でミーティアに本を紹介したときにナナチは「他のやつは文字が読めないから本は拾わない」みたいな発言をしていた。あの発言もモチベーションは反転イキリ癖なんじゃないかなぁ。ミーティアという格好のイキリ対象が目の前に居たことも原因の1つだろう。(オタクのイキリはキモいけどナナチの場合は愛嬌に昇華してしまうのがズルい。さすが美少女。)そういう存在が居るとついうっかり余計な自分語りとか知識自慢とかしちゃうよね。分かる分かる。
 ナナチのそういうところ私は大好きです。ミーティア的にはナナチの性格をどう捉えていたんだろう。今後の話でミーティア側から見たナナチへの印象も描かれると面白いかもしれないなぁ。

 

 さて。話は変わってミーティアについて。
 最初はライザの成れの果てと予想した人も多かったんじゃないかな。ミスリードの条件は揃っている。やたらとリコに執着するミーティア。空席のライザの墓。このタイミングで想起されたレグの記憶。これはもうラストダイブで人間性を喪失したライザの成れの果てでしょ……という予想があっても不思議ではない。
 私自身はその可能性に慄きつつ、いやいやそれなら11話冒頭の想起カットで出てきた女の子は何なのさ、ぜったい彼女がミーティアでしょうと予想していたのでミスリードには騙されなかった。
 でもまさかアフターケア(リコの夢に出てきたという話)まで詰めてくるとは読めなかった。あれも本当に巧い描写だと思うので、これについて色々書き記して記事を終わりたいと思う。


 まずミーティアがリコの苦しみを理解していたということは、彼女にも意識が残っていた可能性を示唆していて、それが意味する所は彼女がちゃんとナナチの慟哭を受け取っていたのかもしれないということである。ミーティアの叫びや涙は単なる"反応"ではなかったのかもしれない。それがナナチに伝わることでナナチもミーティアも少しは救われただろう。
 そして裏を返せばここで救いがあるからこそ火葬砲シーンでは何の奇跡的演出(例:光に包まれた人間ミーティアの幻覚が「ありがとう……」とか言いながら去っていく有りがちなパターン)もなく呆気ない消滅によって深い痛みを描くことが出来たのだろうと思う。
 更に「肉体の消滅によって魂が解放される」というナナチの見立の正しさがリコの「ミーティアは振り返らず”憧れ”を湛えた顔のまま去っていった」(=苦しみから解放されて在るべき魂の形に戻った?)という台詞から証明されるのも巧い。そこでミーティアの意思を受け取ることでリコと同じくナナチもまたアビスの底への憧れを思い出したのかもしれない。だからこそ彼女はリコ達への同行を受け入れたのだろう。それぐらいの理由がないと無二の親友の墓場、最期の思い出の地から離れることはないと思う。現にナナチはあの場所への未練が残っているようだしね。

 

 本日はここまで。
 また何か思い付いたら書き足すかも。
 とりあえず原作読んでみようかな。

シン・ゴジラ雑感

 シン・ゴジラを見たので雑感を書き殴った。構成も体裁も考えなかったので読み難い事この上ないが、興味のある人は楽しんで貰えると幸い。言うまでもないがネタバレだらけの既視聴者向けです。それでは、どうぞ。

 

・今回の東宝式戦車道について

 見る直前に私は「東宝式戦車道は棒立ちで撃つパターンが多すぎ。今回は”撃ったら即座に回避行動”という基本戦術を放棄していなければいいのだが。」といった趣旨のツイートをしたのだが、蓋を開けてみれば不満半分、満足半分といった所だろうか。相変わらず、得たいの知れない怪物を相手に側面を向け、車体を丸ごと晒しているのは気になるものの、息をするかのように行進間射撃やスラローム射撃を命中させていく10式の勇姿は感嘆に値する。全車が一斉に砲塔旋回してゴジラに砲身を指向させるシーンも、地味ながらミリタリ心を的確にくすぐる素晴らしいカットだ。さすが庵野さん、分かってらっしゃる。

 ……とはいえ今回は相手が熱線を繰り出す前に陸軍が全滅してしまった事もあって、「本気のゴジラVS10式軍団」という私の見たかった構図は残念ながら無かった。どうせ、あのゲロ火炎で丸焼きにされる事は分かっているが、それでも「戦車の縦深突破でゴジラの注意を引き、その隙に航空支援や遠距離ミサイルを命中させる。」という”なんちゃって電撃作戦”(本来のグデーリアン式と順序は逆だが)とか「10式が熱線を掻い潜って華麗にスラローム射撃を決めるシーン」を私は期待していたのだ。うーん、せめてハルダウンで待ち伏せたり建物の影に隠れたりする、ぐらいの警戒体制であって然るべきじゃないかね………。何せ相手は得たいの知れない怪物なのだから。側面を晒すのは舐めプでしかない。

 まぁ、色々と気になる点は尽きないが、いつもの単なる”やられ役”とは一味違った活躍が見られただけでも、戦車ファンとしては満足するべきなのだろう。次があるなら是非、機動戦や二重包囲を利用した少し複雑な戦術構想を期待したい。

 

・例のBGMについて
 エヴァというより元ネタの007の方に近いアレンジだったと思う。飾り気が無く、危機感を煽る事のみに特化した形。これが物語の推移によって、段々と勝利BGMのような雰囲気にアレンジされていくのが印象的だった。

 1つのBGMをマイナーチェンジしながらシーンの変化に合わせて繰り返し流す。この表現の長所はシーン毎の対比が劇伴のみで伝わりやすい事。短所は基本のメロディラインが変わらないので飽きやすく、また、このBGM自体を嫌っている人にとっては地獄でしかない事だ。(ちなみにガルパンの劇伴が好きな当方にとっては、非常に好ましい運用方針でした。シン・ゴジラほどではないが、この作品も同じメロディをしつこく繰り返す作品だから。)

 また(個人的には気にならなかったが)没入感を大事にする人にとって、この手の内輪ネタは唾棄すべき下策だろう。BGMが流れる度に物語から現実へと引き戻されるからだ。このBGMが流れる度に笑い出す迷惑なオタクが各地で出没したとも聞く。何にせよ好き嫌いの別れる表現である事には間違い無さそうだ。

 

ゴジラの生物学的な考証について
 他のゴジラシリーズより少し突っ込んだ議論を重ねているのも本作の特徴。しかし、これが返ってツッコミ所を増やす結果に繋がってしまったと思う。まず酸素も食料も要らない完全生物なら口は不要だろう。百歩譲って「口は背ビレと同様に放熱に特化した器官である」と仮定しても、その先に食道や胃が存在するとは限らない。ならば何故凝固剤が経口投与がゴジラに効いたのか、ゴジラバイアベイラビリティはどうなっているのか、検証実験で凝固剤の選定を行ったというがin vitro実験だけで判断できるとは思えない……など、矢口プランに対する致命的な疑問符が大量に浮かんでしまう。(とはいえ静注が無理臭いのも事実なんだよな……。)

 また、新元素の半減期が何かのオマケのように処理されてしまったのも、個人的には勿体無いと感じる。ここで仮に微生物と新元素との関係に言及されていたら、牧悟郎が新元素の設計にも一枚噛んでいる事になり、巷で散見される牧悟郎ゴジラ説の信憑性が更に高まるだろう。故に勿体ないと思った。

 好き勝手言ったが、私はまだ本作を1回しか見ておらず、全ての描写を拾えたとは言いがたい状況だ。2回目、3回目を見る機会があれば、もう少し詳しく生物学的に考察してみたい。その時は、この記事に追記したいと思う。

 

・人間ドラマについて
 徹底的な法的根拠の検証や現代的なモブの反応などに関しては先人が好きなだけ語ってそうな気がするので、ここでは割愛。個人的に好ましいと感じたのは「”現実”を群像的かつ無機質な作劇で見せる」というゴジラにしては新たな課題に取り組みつつ、一方で「主人公とその取り巻きが独自に調査を進める」という古典的なエンタメ要素を忘れなかった点。また、主人公の周りの彼らが総じて早口なので、限られた尺に情報を詰め込めるのは勿論、その早口がキャラクター付け(要はオタク臭い)として機能しているのも巧いと思った。最初のチーム紹介でテンポよく全員をdisったのがファインプレーだろう。あのシーンで主人公チームに愛着が湧いた人は少なくない筈。
 怪獣映画には「他の奴の足を引っ張りたくて仕方ないキャラ」が独りは必ずつきもので、そいつがヘイトを一身に背負うからこそ、主人公その他を「純真な存在」として表現する事が出来る。しかし「日本はまだやれる」という台詞の通り、シンゴジラに無能や悪役(牧悟郎は悪役というより……)は出てこなかった。日本政府は一丸となって脅威に立ち向かうが、しかし決して一枚岩ではない。一人一人の立場、思惑、矜持が台詞や表情、そして行動選択に顕れていた。だからこそ、それを問答無用で消し炭にするゴジラの災害っぷりが効果的に強調されている。終末の光は人間の尊厳など考慮してくれない。それを踏まえて、尚、現実の象徴を総動員して挑む人類がアイロニカルで痛快だったのだが、それに関しては後述の「ヤシロギ作戦について」で述べる。

 

・ヤシロギ作戦について
 新幹線や在来線、高層ビルなど日本の文明(現実)の象徴を総動員してゴジラ(虚構)を圧倒する。まさに圧巻。兵器だけでなく日本の全てをゴジラに投入しつづける泥仕合に惹き込まれた。

 そもそも、この作戦が成功しないor間に合わなければ、核兵器ゴジラに打ち込まれる事になっていた。核の象徴に対して核を使う。これは東京SOSで強く訴えられた「人類は過ちを繰り返す」を地で行くような作戦だ。それをヤシロギ作戦は真っ向から否定した。この構図は前述の「日本はまだやれる。」に繋がる文脈だと私は考える。

 また第一小隊の全滅に際して矢口が目を伏せたのも印象的。予てより東宝自衛隊は味方の犠牲に冷た過ぎないかと思っていたので。「戦争映画じゃないので、その手の描写はオミットして然るべきだろう。」という主張も分からなくない。テンポの問題も有るし。だから一瞬だけ矢口が目を伏せるカットを挟む。アレは必要十分の表現だと思う。尺の問題も有るしね。

 ただ強いて言うなら、ゴジラの抵抗が少しショボかったのは残念。尻尾から熱線を出すギミックも白昼という時間帯のせいでイマイチ画として映えなかった。もっと人類の想像しえない手段でゴジラが抵抗し、それに対して矢口が重大な決断を下す、という場面があれば、もっと盛り上がったのに。そも矢口が現場にいたのは、その場で政治的な決断を下せる人間が必要だったからと説明されている。これは何か起こるフラグだろうと思ったが、特に回収される事なく終わったのは肩透かしだ。

 

ゴジラについて
 今回のゴジラは他のシリーズに比べると色々な要素が混在している。基本的には単なる巨大生物であり、GMKゴジラみたいに人間を殺す事へ生き甲斐を感じているような素振りは見せない。知性にも乏しいと見える。しかし、そのルーツには当然ながら”核廃棄物”という人間の罪がある。また、仮に牧悟郎が融合しているなら、放射線や日本への恨みがインストールされている事になる。このゴジラが都心に執着した理由も自ずと想像がつくだろう。

 このように相反した概念を併せ持つシンゴジラだが、現代日本では地震津波、火災、大雨、落雷と等しく「災害」として処理される所に、一抹の虚しさと不思議な安定感を覚えた。これだけの要素を混在させれば統一感の無さに違和感を覚えて然るべきだと思う。しかし、結局のところ人類から見ればゴジラも単なる「災害」でしかない、そう弁えた途端に全てが虚飾に見えた。矢口は「ゴジラと共存するしかない。」と言ったが、「災害」に対しても同じことが言える。この作品はゴジラという存在ではなく、その捉え方にメッセージを込めたのだろう。変則的だがこれほど”現実対虚構”に相応しい表現はないと私は思った。*1

 

 まだ書き足りない事が有るけれど、気力と時間が足りないので、ここで擱筆する。筆を走らせて実感したが、やはり1回見ただけでは記憶から抜け落ちている点が多い。これは他のゴジラシリーズにも言えること。時間を見つけて過去作を観直した上で、再度、シンゴジラを鑑賞したい。以上、こんなメモ紛いの文章を読んでくれて感謝する。

 

【追記 16/08/04】

 そういえば以前twitterで「シン・ゴジラでは9条が無視されているので、確かに”左右の9条論への揶揄”というポリティカルなメッセージが込められているのだ。」という評論を見かけたが、本作を鑑賞した今になっても結局、ピンと来なかった。

 9条は対象を”国際紛争”に限定した法規なのだから「”自然災害”であるゴジラに防衛出動を行う法的根拠の議論」で引き合いに出されないのは至極当然の流れであり、そこに何か9条への特別な意図が込められているとは思えない。発言者は「シン・ゴジラ自衛隊法の解釈次第で9条を無視した防衛出動が可能である事を証明した」といった趣旨の発言をしているけれど、それはあくまで相手が”ゴジラ”である場合の話だろう。確かに「もし事が国際紛争であったとしても、国は同じ対応を取ることが可能なのではないか……?」というクエスチョンは興味深いけれど、少なくとも作中では議論されていない案件だ。故に私の持論においてはシン・ゴジラと”左右の9条論”は無関係であり、制作陣が上述の意図を込めているとは考えにくい。

 一方で深読みするのは別に個人の自由だと思う。誰に制限される謂れもない。揶揄している可能性もゼロではないのだ*2。ただし、その自説を他人に上から目線で押し付けたり、主観に過ぎない意見を”確かにある”と事実であるかの如く断定したりすると、当然ながら要らぬ反感や誤解を招いてしまう。人の振り見て我が振り直せ。私自身も肝に命じるべきだと痛感した。

*1:あの終わり方を”投げっ放し”と評する者もいるが、私はそう思わない。矢口はゴジラとの共存を覚悟した。それは作品としての結論とも言えるからだ。

*2:真相は制作陣のみぞ知る。

三者三葉を三話まで見ました

 この記事はネタバレを含みます。それをご了承の上で御覧ください。

 

 

 

 こんにちは。ぽてかなです。

 今回は2016年春アニメにして、動画工房の期待の新作「三者三葉」1~3話の雑感です。先日公開した「はいふり」雑感と同じで、この記事もベースライン――すなわち私の「三者三葉」鑑賞の原点として扱います。

 さて、前置きはここまでにして、本題に入りましょう。

 ……と言いつつ、早速横道に逸れますが、皆さんは葵せきな先生の「生徒会の一存*1」というラノベをご存知でしょうか。1巻の初版刊行が8年前なので、既読者でも内容を忘れている方が多いかもしれませんね。というか、もう8年前ですよ。先生の前作「マテリアルゴースト」に至っては10年前です。そして2年後には生存が「10年前」になっている訳です。この「10年前」が迫ってくる感覚……恐ろしいですね。何が恐ろしいのか考察しはじめたら、本格的に読者諸氏がブラウザバックしてしまいそうなので、ここでは控えますが。

 で、なぜ唐突に生存を引き合いに出したかと言うと、お察しの通り、私が「三者三葉」を拝見したときに真っ先に想起したのが、この作品だったからです*2。生存ほど「三者三葉」の副読本として有用な作品はないだろう、と思ってしまうぐらい。その理由は後ほど説明します。

 生存の基本的な構造は至ってシンプルです。多かれ少なかれ変動しますけどね。

1、会長の受け売り名言でスタート

2、生徒会役員の駄弁りor活動

3、終盤で「いい話」に

4、それを台無しにするギャグオチ(照れ隠しとも言う)

 1や2が3の伏線になっているパターンが大半です。何でもないギャグに誰かしらへの気遣いや愛情が込められています。3の段階でしれっと種明かしされて、読者はハッと気付かされるという寸法です。

 ここまで言えばピンと来る方も多いはず。そうです。「三者三葉」も生存と同じように、人間関係の機微をギャグでカモフラージュしながら描いた作品です。"主役"はギャグだけど、"主軸"は心の交錯にあります。2話と3話は特にそれが顕著ですね。葉山光や園部篠の家族愛には胸が温かくなりました。

 しかし、同じ点があれば、違う点もあります。

 まず「三者三葉」の方は愛情の矢印が一方通行気味なんですよね。今のところ葉子、照、双葉*3は毎回、受け手側に回っています。今後は三葉からのアプローチも欲しいです。

 無論、行動が伴わないだけで"想い"は十分に描かれていると思いますよ*4。照が消え入りそうな声で「ありがとう」と口にするシーンなんて最高ですね。そこでお姉ちゃんが「ええ、何だって?」と某難聴主人公ばりに聞き返さないのもグッドです。大事なのは相手に聞こえるかではなく、照が感謝しているという事実のみ。電車の音に隠れるように言ったのは照の照れ隠しでしょう。私はそう思っています。そしていずれ照の方から光に情愛を向けるエピソードが不意打ちで挟まれたら……私としては本作を名作認定するのも吝かではありません。

 その点、生存は双方向のアプローチを一息で描くために、キャラの知性を高めるという手法が取られています。生存の登場人物は皆、普段の会話から数手先を読むような人間ばかりです。故に誰かの気遣いや空気を敏感に感じ取って然り気なく応えると、他の誰かがそれに気付いて微笑む……という”察し”の連鎖が発生します。その上で「本人の前では気付かないフリをする」という選択肢が取られるケースも珍しくない。そこまで敏いくせに、やっていることは馬鹿丸出し――この矛盾が生存の魅力です*5

 「三者三葉」のキャラは、さすがにここまで機転の利く人達ではないですね。だから、例えば上述のイベントでも、照はとうの昔から光の気遣いには気付いていて、ふとした拍子に感謝を伝えてみる*6も、それに対する光の返しがまた数枚上手*7で、照は「やっぱりお姉ちゃんには敵わないなぁ」と呆れつつもどこか満足気に笑うのであった……みたいな生存っぽい展開にはなりません。それはそれで個人的には見てみたい気もしますが、しかし、アプローチの矢印をエピソードごとに区切る方が、人間関係の変化が分かりやすいという見方もできます。特にアニメという限られた尺でやるならば尚更、双方向を一気に描くのは得策ではありません。1話毎の情報量が増えてしまうので、それを裁くのに手一杯で他の要素が疎かになりかねない*8。「え、何だって?」が無いのも一方通行の賜物かもしれませんね。

 或いは少々不器用に設定されているからこそ、等身大の女の子が描かれているとも言えませんか。生存はハイスペックな人間しか出てこないので、読者としては憧憬の念を抱くことはあっても、親近感は湧いてこない。その点、三葉が送る日常は、もしかしたら私の知らないどこかで本当に起きているかもしれない、と思わせてくれるようなビリーヴァビリティに満ちています*9

 その一助となっているのが動画工房の仕事でしょう。動画工房と言えば「よく動くアニメーション」で有名ですが、この「三者三葉」でも女の子がよく動きますよね。ほら見て下さいよ、1話で葉子様が「いつも悪いわねっ」と返すシーンでの頭の振り具合。ここで私はみでしのワンシーンを思い出しました。真白が廊下を走って玄関先の白夜に飛び込むときにフローリングで少し横滑りするカットです*10。この2作品は「キャラを動かすけど、無駄な動きはさせない」という点で共通しています*11。”女の子”を描く上で必要なベクトルでしか動かさないけど、そのベクトル上ではガッツリ動かします。他にも例を挙げますと、双葉がパンを頬張るシーンの食パンのふわふわ感や、光に呼びかけられたときの照の表情変化、渾名を要求する葉子様の流れる清水の如き所作などなど。こういった些細な芝居を詰めることで女の子らしい情感が生まれ、引いては作品のビリーヴァビリティ向上に寄与するのです。

 これは絵コンテや監督の仕事ですかね。木村泰大氏は「三者三葉」が初監督で1話と3話の絵コンテを担当されています。頑張ってらっしゃるなーと思いますが、最初からアクセルを踏み過ぎな気もします。中盤終盤で息切れしなければ良いのですが。あー、でも3話の時点で作画カロリーを抑えるような工夫*12は随所に見られましたから、これは杞憂に終わるかもしれませんね。そうであって欲しいです。

 2話の絵コンテ演出を担当された谷田部透湖氏は新人ながら興味深い方です。7本の自主制作アニメを制作したかと思えば、いきなり商業作品で動画や原画マンをすっ飛ばして作監や絵コンテ演出を任されるという、稀有な経歴*13の持ち主。最新の自主制作アニメ「木の葉化石の夏」を見る限りでは、なるほど、「三者三葉」2話に通ずるポイントが色々と見えてきます。本人もtwitterでその旨を呟かれているので紹介しましょう。

 木村監督も初監督の割になかなか思い切ったことをしますね。絵コンテの個人趣味に任せたということは、恐らく原作とはズレている箇所もあることでしょう*14。原作読者に叩かれそうな要因は極力排除した方が無難だとは思いますが、どうなんでしょうね。特に芳文社きらら系作品のファンは、原作ブレイカーに敏感なイメージがありますから*15。ただ個人的にはそれほど違和感を覚えませんでしたね。今まで都市部の話しかなかったので唐突な田舎には少し面食らいましたが「恐らく親戚の家が田舎にあって、お盆か何かで遊びに行ったんだろうな」と脳内補完することで順応しました。今後の話で齟齬が生まれれば台無しですが、そこはシリーズ構成・脚本の子安秀明氏が適切に対応するのでは。彼は動画工房との関係も深いので、変な伝達ミスが発生するとも思えません。安心ですね。

 さて閑話休題。生存との比較に戻りましょう。

 生存はギャグからいい話に持っていくとき、台詞や地の文で全て説明してしまう傾向にあります。説明されないと分からない箇所もあるので仕方ないといえば仕方ないのですが、やはり言葉にされると軽くなってしまうのも事実。そのせいで興が削がれる場面も少なくありません。その点「三者三様」では言葉での表現がなるべく抑えられているように思えます。まあ裏を返せば、生存のキャラほど多くを察していないからこそ出来る芸当とも言えるのですが、それ以上に絵の説得力でカバーしている面もあります。例えば、光の気遣いに気付いた照の歩調の遅れとか、三葉のかしましい会話を見て園部が回想するまでの僅かな間とか。つまりこの作品では「登場人物が無言で何か考えている様子」を表現するために、ちゃんと尺を割いているのです。特に顕著なのは、西山芹奈が猫を貰ってくるシーンですね。照れ隠しで言葉を重ねていた芹菜が、猫に飛び掛かられると黙ってしまう。そして「光の加減で見えない写真が映るだけのカット」を挟むことで、ここでも芹菜が黙考するだけの時間を用意する。考えている内容は、それまでの流れと"見えない写真"というファクターから、視聴者が勝手に想像してよい。理想的なまでに押し付けがましさの無い作品です。だけど見せるべき部分はキッチリ見せてくれます。これが初監督の仕事とは思えないですね。なかなかどうして上手いこと調整されていて、驚嘆の念に堪えません。

 でも中にはもう一手、何かしらの指針を欲する人もいるかもしれません。そこで私は思うのです。生存ほど「副読本」として相応しい作品は無いと。特に葉山照は"腹黒"かつ"守りに入ると弱い"という性質が生存の紅葉知弦にそっくりなんで、個人的にはさくっと内面を想像できて楽しいキャラです。この記事でもやたらと照に言及しているのは、つまりそういうことですね(笑)実のところ照は芹菜の煽りを悪く思っていないのでは?今や猫好きという共通点も出来たことだし、何だかんだ言ってこれから仲良くなるのでは?文句言いつつも光のバナナニンニクジュースを飲み干す照は、やっぱり気遣い云々に気付く前からお姉ちゃん大好きっ娘なのでは?*16とか色々想像して楽しんでいます。とはいえ葉山照の腹黒さは単なる記号ではなく、かなり繊細にコントロールされていますので、他の要素が入り込むにつれて少しずつ薄れていく可能性は大です。そこまで手が回らないんですね。実際、3話の照は少し腹黒成分が弱いなと思いませんでしたか。私は若干気になりました*17。これが私の杞憂で終わるように、監督やシリーズ構成には頑張って頂きたいですね。

 最後に音楽や音響、美術について、さらっと触れて終わります。

(……本当はここでOPの作詞・作曲を担当されたおぐらあすか氏と動画工房の親和性について語る予定だったのですが、twitterで全く同じ論説を見かけたのでそれを引用するだけに留めます。)

 さて劇伴です。……とはいえ、うーん正直、特に印象に残る劇伴は無いですね。変に浮くよりはマシなのですが。良くも悪くも色が薄い。最近の動画工房では「干物妹!うまるちゃん」の劇伴が私の好みです。経験豊富な三澤康広が担当されているだけあってメロディがキャッチーで耳に残ります。あのモールス信号のような曲調にヤられた方は少なくないでしょう。「三者三葉」の方が使用する楽器は多岐に渡っていて、特に山Gのテーマや薗部さんが屋上に出るシーンのBGMは悪くないなーと思うのですが。効果音と声だけで演出するシーンも多いので、そのせいで劇伴の存在感が薄くなっているのかもしれませんね。でも同じような演出方針だった「みでし」では特に気にならなかったんですよ。劇伴もそこそこ印象に残っていまして。ふーむ、もう少し話数を踏まえて吟味する必要がありそうですね。

 美術に関しては言うことがないです。グッド。牧歌的な雰囲気が彩度の低い色彩設計とよく合っています。舞台は町中に設定されていながら、三葉の憩いの場――つまりキープレイス*18は木洩れ陽の揺れる梢の影。都会ではないけど田舎でもない。このミスマッチが独特な色彩設計を軸に纏まっています。不思議な感覚です。2話の唐突な田舎にさほど疑問を抱かなかったのも、この辺りに原因があるのかもしれません。もしや監督はそこまで計算した上で、新人絵コンテに自由にやらせたのでしょうか……。あくまでこれは私の憶測なのですが、もし事実だとしたら上手いこと掌の上で転がされたなーと思います。心地よいですね。本当は何も気にせず、茫洋とした気分で眺めるのが1番素敵なアニメ鑑賞だと思っているので*19。寧ろ上手に騙してほしい。今後の話数にも期待できそうです。

 と、こんな感じで「三者三葉」は個人的に大層楽しめそうな作品です。この記事を描く上で何度も見返したのですが、これが全く飽きないんですよ。私は「見る度に発見のある作品」は率先して視聴回数を増やす傾向にあるのですが、時折それとは関係なく「単純に好きだから」という理由で増やすこともあります*20。「三者三葉」は後者ですね。生存やみでしを鑑賞しなおす貴重な機会にもなりました。今後も気になる作品があって、尚且つ、気が向いたらブログに記事を上げる所存なので、暇な方は是非覗いていって下さい。そしてもし宜しければ、貴方の慧眼なる知見を授けて下さると幸いです。

 それでは、またいずれ。

*1:以下、生存と略称

*2:今更ですが、この記事は生存のネタバレも含みます。

*3:以下、この3人を三葉と呼びます

*4:この微妙なニュアンスを含めて一方通行”気味”と、奥歯に物が挟まったような言い方をしたのですが、伝わりましたか。

*5:同じ方向で突き詰めた挙句にジュブナイルサスペンスへ昇華させた「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」という作品もあります。文句無しの名作なので未読の方は是非。

*6:不意打ちという名のS行為も含めたり

*7:しかし無意識。生存的には会長ポジション。

*8:それでも上手いこと両立してしまう作品もあるにはあるのですが。

*9:ちなみに「私の知っているどこかで本当に起きているよなぁ」と納得してしまうのが"ゆゆ式"です。

*10:1話参照

*11:三者三葉」では、みでしのように中割で崩す

*12:引きのカットや平面的な構図が少々目立ちました

*13:それとも割りと珍しくない経歴だったりするんですか。私は初めて見ましたが。

*14:私は未読なので知りませんが

*15:ほらモザシコ警察とかさ……

*16:まあ無理に飲まされたようにも見えましたが

*17:いや本当に”若干”なんですけどね。

*18:こういう言い方するんですかね。しなさそう……。

*19:こんな考察分析まがいの記事ばかり上げて何を言う、と思われそうですが。

*20:両方を満たす作品もありますよ。最近ではガルパン der filmが該当します。

はいふり1話を見ました。

 この記事はネタバレを含みます。それをご了承の上で御覧ください。

 

 

 

 今春より放送開始のオリジナルアニメ

 「はいふり」――改め「ハイスクール・フリート」

 メインスタッフに鈴木貴昭さん*1、吉田玲子さん*2グラフィニカ*3と、ガルパンのメインスタッフが名を連ねているので、私のようなガルパンおじさんは予てより注目していた作品でしょう。

 先日、待望の1話が放映されたので、忌憚なく雑感を述べようと思います。*4

 

 やはり当然ながら、随所にガルパンの影がチラつく作品だなと思いました。2番煎じ、パクリと揶揄する意図はありません。ただ、ガルパンスタッフに惹かれて見始めた以上、何かと比較してしまうのは不可抗力なんです。そういうことにして下さい。

 さて、まずは3DCGから。上述した通り、2作品ともグラフィニカさんが請け負っています。更にガルパンでリードモデラーを担当していた後藤岳 氏が、本作品でもチーフモデラーを担当しています。そのせいか、いや、間違いなくそのせいで、艦船のモデリングはかなり拘って造り込まれています。特にウェザリングのリアリティは瞠目すべきと言えるでしょう。(ただ鎖のCGは少しのっぺりしていて気になります。円盤で修正されるのでしょうか。)あと海面のCGも文句無しの出来。海や河の3DCGは特に手間が掛かるようで、ガルパン6巻BDでは戦車渡河シーンでの苦労話が聞けます。今作品はその苦労を毎度のように背負わなくてはならないので、いや本当にグラフィニカの皆さんが過労死しないか心配です。

 ただ、ガルパン総作画監督 兼 ミリタリーワークスとして活躍なさった伊藤岳史 氏がハイスクール・フリートには参加していないんですよね。これは個人的にかなり残念に思っています。ガルパンの緻密な車内設定や個性溢れるモーション等々は並べて、伊藤先生の妙手の賜物です。*5。彼が「ハイスクール・フリート」に参加した暁には、船内のデティールが桁違いに跳ね上がるのは勿論、キャラクターの芝居にも深み*6が出てくるのは間違いないでしょう。少なからずガルパンスタッフが参加している企画なのだから、どこかで「伊藤先生の力をお借りしよう」という話が持ち上がってもおかしくないと思うんですけどね……。スケジュールが合わなかったのか、制作会社との関係がよろしくないのか。うーん、残念です。

 閑話休題。3DCGだけでなく台詞回しにもガルパンっぽさが垣間見えますね。特に戦艦道シーン*7での、シリアスとコメディが錯綜するハイテンポな掛け合いは、ガルパンそのものです。本作品もガルパンと同じように、細かい台詞回しを積み重ねることで、じわじわとキャラ付けしていく構造なのでしょう。吉田玲子さんは人間関係の微妙なニュアンスをコントロールすることに長けています*8から、キャラクターが30人を超えていようと上手く捌いてくれるはず。(とはいえ今回は艦橋要員と見張り員、それから幼なじみちゃんしか印象に残らなかったけど……。)

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こういうレイアウトで複数のキャラを見せる手法も、ちょっとガルパンっぽい?

 

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士官帽を被った途端に表情がキリッと引き締まる岬明乃ちゃん。透き通るような碧い眼が炯々と光っています。彼女の「攻撃はじめ!」で西住殿の「攻撃開始」を思い出しました。第二の軍神誕生?

 

[追記:2016年4月18日]

 ミケちゃんが「私が艦長で大丈夫かな……?」と口にする*9シーンで、瞳の中を涙が"うるん"と一回転する描写がありましたね。これはガルパンでも何度か見られる演出です。ガルパンと同じように、最初はミケちゃん1人の"うるん"だったのが、最終話付近では皆に"うるん"が伝染しそう。スタッフコメンタリーで自賛されていた演出なので可能性は高いと思うのですが、いかがでしょうか。

 ただ、今作品はガルパンと違って人死のリスクが否定されない世界観なので、それ故にガルパンにはない魅力を感じる台詞回しもありました。すなわち発泡直後の渾名ネタです。このタイミングでのギャグに違和感を覚えた人は少なくないと思いますが、私は寧ろ安心感を覚えました。というのは、出航シーンで突如、人が変わったように矢継ぎ早に指示を出す明乃と淀みなく応えるクルーの皆を見て、もしかして彼女たちは普通の女子高生などではなく、大人顔負けの知識と精神を兼ね備えたプロ集団なのか?これがブルーマーメイドって奴なのか?と疑念を抱いていました。でも実際には、そうでもなかった。非常事態に陥っても即座に意識を切り替えられず、日常の戯れ言を口にしてしまう明乃ちゃん。それに思わず反応してしまうシロちゃん。彼女たちは特殊な訓練を受けたプロではなく、突然の脅威を現実として受け止められず目を逸らしてしまうような、あくまで(知識や技術はともかく精神的には)普通の女子高生でしかない。その事実を、あのシーンで初めて"実感"することが出来ました。あのタイミングでギャグを挟んでくれたからこそ、私は安心して彼女たちを「女子高生の殻を被った軍人」ではなく「艦船の運行に長けているだけの年頃の少女」として見ることができたのです。

 しかし、そんな「いかにも」な女子高生らしいキャラがいるならば、逆に軍人としか思えないような「プロっぽい」女子高生がいてもおかしくない。それが個性というものです*10。見張り員ちゃんは、後者に属する人間ですね。晴風クルーで唯一、着弾と一弾指の間もなく意識を切り替えて、皆に注意喚起をしました。彼女は完全にプロの精神を会得していますね。不安定な足場にも関わらず砲撃を受けても落下しない、あのバランス感覚もおかしい。人間離れしています。それ故に見張り員を任されたのでしょう。うん、いいですね。こんな感じで一人一人の個性をアピールして欲しいです。

 さて、何でもかんでもガルパンに結びつけてしまうのも良くないので、ここからはガルパンとは関係無く感じたことを述べたいと思います。

 効果音や着弾・爆発エフェクト、カメラワークは出色と言って差支えのない出来だと思います。特に手旗信号からの着弾→トラックバック→回り込みの臨場感は最高ですね。そして激しく捲り込む波のうねり。轟く濤声。さすがは演出出身の監督と言ったところでしょうか。やはり奥行きをダイナミックに使った戦闘シーンは迫力が違うんですよね。個人的には1話で最も胸を打たれるシーンでした。ちなみに同じ海モノ繋がりで引き合いに出しますが、アニメ版艦これの5・7話*11も空間を立体的に使った戦闘シーンが楽しめますよ。画面左側から手前に寄り、右側の奥にいる翔鶴の元へ流れる瑞鶴をカメラが控え目にフォローします。あの臨場感が堪らない。個人的に艦これアニメには良い印象が無いのですが、5・7話は正しく鶏群の一鶴と言うべき代物でした。この機会にでも是非見直してみることをオススメします。

 余計な世界観説明や用語解説が無いのは、この作品の美徳だと思います。そういった要素は感情移入の妨げになってしまうので。ブルーマーメイドの標語も「メタ的には視聴者向けの解説だけど、作中では一般的に認知されている文言」という扱いであり、尚且つ、ミケモカの幼少からの繋がりを端的に示すキーワードとして機能しています。これは素晴らしい。

 ただ裏を返せば、説明不足により視聴者と制作の間でコンセンサスが取れず、視聴者を置き去りにしたまま話が進んでいく危険性を孕んだ構造とも言えます。せめてブルーマーメイドが「何から」海の安全を守るのか、倒すべき脅威――すなわち作品としてのゴールを明示してくれれば、自ずと物語の方向性も見えてくるでしょう。今回の1話は掴みに特化した造りなので説明不足でも許されますが、2話か3話で足場を固めてないと視聴者は段々と振り落とされてしまうだろうと思います。しかし間違っても「過度な説明」や「モノローグで解説」といった、お寒い演出は御免被りたい*12。絶妙な塩梅が要求されますが、そこは監督が上手くコントロールしていく必要があるでしょう。

 ここまでは作品を割りと好意的に語ったつもりですが、やはり気になる点もいくつかありました。それを3つほど挙げて説明します。

 1つ目。日常シーンの会話に緩急がない。ミケモカ再開シーンは特にそれが顕著で、互いに一定のリズムで言葉を投げ合っています。相手の言葉を受けて考え込んだり、意表を突かれたりといった表現が見られないので、視聴者としては人間関係の間合いが掴みにくく、キャラ把握の難易度が上がってしまいます。そのせいか2人が抱き合うシーンも、どこかぎこちないように見えてしまう。せっかく吉田玲子さんが脚本を担当なさるのですから、会話の間合いも含めて人間ドラマを作り込んで欲しいなと思います。

 2つ目。劇伴や他の人の台詞に隠れて聞こえにくい台詞が散見されます。原因としてまず「リアルな時間の流れを演出するため」という説が考えられますが、そうなると渾名ネタの最中に撃ってこなかった件が不自然であり、また劇伴に隠れていたケースを説明することが出来ません。狙いが「全ての台詞が視聴者に聞こえるわけではない=視聴者が見ていない間も彼女たちは会話している、という”リアル"を実感させる」ことだとしたら、それはそれで(上述した)会話のテンポ問題とチグハグで違和感を覚えます。音響監督や編集の力不足と見るしかないのか、この演出が今後の話数で効果を発揮するのか。今後も注視していきたい点の1つです。

 3つ目。日常シーンの画に立体感がない。これもミケモカ再開シーンが特に顕著だったと思います。奥行きが無ければキャラとキャラの距離感が掴みづらいので、人間関係や情感を把握しにくい。画に奥行きを持たせるには結構なカロリーが要求されるらしいので、戦艦道シーンにリソースを振るために敢えて日常シーンには平面的な構図を多用したのかもしれません。まあ距離感に関しては、アングルを適度に切り替えれば解消できる問題なのですが、今後の展開によっては会話が繰り広げられている"その瞬間"に距離感を把握させて欲しい場面も出てくると思うんですよ。そういうシーンには思い切ってリソースを注ぎ込んで欲しいですね。艦船だけでなく少女も本作品の主役ですから。

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奥行き繋がりでもう一つ。このシーンを見たとき、明乃ちゃんたちと艦船との縮尺に違和感を覚えたの私だけでしょうか。もっと2人と艦船との距離を空けてアングルを明乃ちゃんたちに寄せた上でグイッとクレーンアップすれば、艦船が整然と並ぶ壮麗な俯瞰絵を見せられると思うのですが……。そうはいかないモノなんですかね。

 

 最後に今後の展望や個人的に欲しい展開を述べて終わろうと思います。

 まず何と言って気になるのが教官の真意ですよね。劇中で何度も示唆されているように教官は意図的に砲撃を外すことで、晴風の叛逆を誘導しています。教官は「穏やかな波は良い船乗りを育てない」と言いましたが、さすがに単なる教育の一環だとしたら熱血指導が過ぎるでしょう。さりとて教官の行動には計画性が無いので、予てより晴風を嵌めるつもりだったとも思えません。というのも、今回の一件を意図的に起こすためには、晴風に何かしらの細工を施して故障させなくてはなりませんが、それを示唆するようなシーンは見当たらないのです*13。つまり教官がその場で晴風を反乱分子に仕立てようと思い至る理由がどこかに隠されているはずなのです。しかし推測しようにも手掛かりがないのでモヤモヤしますよね。憶測や妄想に範囲を広げるなら色々と思う所はありますが、それこそ2chや他のブログで既に散々考察されているのではないでしょうか*14。何にせよ真相が明かされたときに、この1話が「いや、そこまでする必要があったのかな?」と言われるようなシナリオにならないことを祈っています。

 あと晴風クルーの名前を早く覚えたいので、各科にフォーカスした話が欲しいですね。それも○○科回○○ちゃん回といった形式ではなく、戦闘や日常の中で断片的にエピソードを盛り込むような造りの方が個人的には好きです。(それに本作品はシナリオの中軸が謎に包まれているので、それを明かさないまま話を停滞させたら、視聴者が離れる要因になってしまうと思います。)

 例えば「放課後のプレアデス」でキャラクター達がカーテンに包まって会話したシーン*15は、キャラ描写の模範例だと思います。画角を狭めて画面には喋っているキャラだけを映し、会話に合わせてカメラを小気味よくパンさせる演出は、一人一人を覚えさせる上では非常に効果的ですよね。何せ話している本人以外は画面に映らないので、発言内容とキャラの顔を記憶の中で一致させやすいのです。或いは本人の言動だけでなく、他のキャラから掛けられる言葉を以って、キャラを立たせていくのも面白いと思います。この手の表現は我の弱いキャラクターの心理描写には持って来いです。例えば「たまゆら」シリーズの沢渡楓は、まさに人との関わりの中で人間性を描かれたキャラクターですね*16。他には一人一人のパーソナルスペース*17も気になりますし、無意識に出る癖*18を見せてくれると嬉しい。特に後者は既に本作品でも散見される*19ので、今後も期待できそうです。

 とにかく明乃ちゃんたちに関する情報が欲しい*20。でも押し付けがましくない程度に。黙して語るスタイルで明乃ちゃんたちの魅力をそれとなくアピールしてほしい。そして明乃ちゃんたちを好きにさせてほしい。好きにならないと感情移入も儘ならないのです。感情移入できなければ、折角の戦艦道シーンも魅力半減でしょう。

 そして、もし仮に人死や人権の蹂躙といったシリアス展開(の中でも極めて深刻な方向)に舵を切るのならば、趣味嗜好や人となり、アイデンティティの描写だけでは足りません。やるなら徹底的にやらないと浅陋の謗りを免れないでしょう。正直、そこまで攻めるなら1話から相応の布石*21を打たないと厳しいので、さすがに死を絡めてくることは無いと予想しています*22

 ということで。そろそろ疲れてきたので筆を置きます。ああでも、最後に1つだけ。この記事は私にとっての"ベースライン"です。2話以降を見たときに振り返るべき原点の記録。なので正直、これを公開する理由は特に見当たらないのですが……。まー、最終話が終わる頃に、私の期待が悉く裏切られていたり、予想が大外れだったりしたときには、せいぜい笑ってやって下さい。そうやって痛みを共有するのも、立派な愉しみの1つなので。それが「公開した理由」になることでしょう。

 それでは、またいずれ。

 

 

[追記 2016年4月18日]

 最近「少女終末旅行」という漫画の一巻を拝読しまして*23、その中に「はいふり」でも見たい描写を見つけたので、ここに追記しようと思います。これも一応、ベースラインの1つとして扱うため、新記事ではなく追記という形を取りました。まだ2話を拝見していないのでね。

 では早速本題へ。

※「少女終末旅行」のネタバレがあります。

 

 

 

 

 

 まずは百聞は一見に如かずということで、該当するシーンを御覧ください。(台詞は一旦、無視してください。)

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黒髪の方がチト。垂れ目の方がユーリです。終わってしまった世界を2人が旅する、ほのぼのディストピア・ストーリー。それが「少女終末旅行」という作品です。

<画像①とします> 

 見ての通り、2人が協力して段差を登るだけの、何でもない2コマです。でも、その何でもない2コマに、さり気なく描かれた2人の"距離感"。この細やかな描写に私は感嘆しました。その理由は直前の2コマにあります。

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私の言わんとしていることが、お分かり頂けますか。

<画像②とします。>

 ここで2人の会話をざっと確認して下さい。ざっとで良いです。

 ……はい、お気付きの通り、2人は本来①へ至るまでに交わして然るべき会話――例えば「段差が高い。登れそうにないよ。」とか「乗り込むから手伝ってくれ。」といった打ち合わせを一切行っていないのです。位置関係から分かることですが、アイコンタクトすら交わしていません。この2人には、そんなまどろこっしい意思疎通など必要無いのでしょう。ユーはちーちゃんの意図を汲み取って彼女を抱き抱え、そしてちーちゃんはユーを引っ張り上げる。そこに言葉は要らない――それどころか特別、意識する必要すらない。一連の流れを雑談の片手間で行っているのが、その証左です。

 そもそも何故2人は爆撃機の残骸に乗り込んだのか。まず2人が爆撃機を見つけたときの会話を引用しましょう。画像②の直前のコマです。それがこちら。

ユーリ「すごい!飛行機だ。飛んでたのかな。」

チト「昔はね。」

 以上です。紛うことなき単なる雑談です。次の行動に繋がるような要素はどこにも見当たりません。そこで、もう少し遡ってみると2人の狙いが分かります。

(戦車やトラクターなどの兵器の残骸が埋もれている雪原を見て)

ユーリ「ちーちゃんは武器もたないの?」

チト「いらないよ」

ユーリ「たくさんあるのに」

チト「ほとんどゴミでしょ。……でもまあもう少し探索してみようか」

 ~略~

ユーリ「ご飯落ちてないかな」

チト「いや……ごはんは……固形食料ならあるいは……」

  エクスキューズとしては漠然としていますよね。例えば爆撃機の前で「こんなに大きい兵器ならいろいろ積まれているかも。探索してみよう。」などと言わせれば、読者向けの説明としては必要十分でしょう。「いろいろ」を「固形食料」に変えれば、誤解の生じる余地はいよいよ皆無です。しかし、そんなわざとらしい説明台詞では、2人の親密度は全く伝わって来ません。何故なら誤解を恐れるということは、それだけ心の距離が遠いことを意味しているからです。その空漠を言葉で埋めないと、安心してコミュニケーションを取ることが出来ない。裏を返せば、距離が近ければ近いほど、会話から余分な言葉が削ぎ落とされます。晩年の夫婦がボケていても「あれ」「それ」だけで十分に通じ合えるのと似ているかもしれません。だからこそ筆者は、2人の距離感の描写を優先するために、読者への理由付けを最低限に留めたのでしょう。

 そして、ここで2人が”通じ合っている”ことを強調したことが、その後のセンシティブな展開の布石になっています。終末世界、食料と来ればピンと来ますよね。そうです。「略奪」です。詳しくは原作を読んで頂きたいので省きますが、ざっくりと説明しますと、ユーリがチトを銃で牽制しながら、5本入りレーションの最後の一個を勝手に食べてしまうのです。……いや”通じ合っている”とは何だったのかと思われるかもしれませんが、寧ろ事前に2人の親密度を強調していなければ、こういう展開には手を出せません。案の定、ユーリは食べる直前に銃を下げてしまうし、チトは「本気で食いやがった!」と今までの信頼関係を伺わせるような台詞を吐きながら頭突きを繰り出すし、ユーリはチトに殴られて何故か幸せそうに笑っているしで、緊迫感は一瞬で霧散してしまいます。極めつけが殴り疲れてユーリに体を預けたチトの「覚えていろよ……」ですね。2人がここで決裂することなく、これからも一緒に旅を続ける何よりの証拠です。結局、このエピソードを要約すると、食料略奪という死活問題ですら2人の間では茶番劇やじゃれ合いで終わってしまう、というハートフルな結論に落ち着く訳です。これは画像①②などの描写で土台を固めなければ説得力の出ない終わり方だと思います。

 このエピソードから私は「踏み込んだ展開をしたければ、まず人間関係をキッチリ描写しなくてはならない」と学びました。そこで、今まさに"踏み込んだ展開"をしようとしている「ハイスクール・フリート」に話を戻そうと思います。画像①のような「何でもない2コマ」を是非とも、この作品にも期待したいのです。

 ミケモカのハグがあるじゃないかと思われる方もいるでしょうが、個人的にアレを見たときは「今から百合サービス来ますよ!皆さん見ててくださいねー!せーのっ、はい抱擁!」みたいな、押し付けがましさとワザとらしさを感じてしまいました*24。どちらともなく笑い出すのもテンプレートじみた描写で、イマイチ2人だけの関係性が伝わって来ない。もっと(ミケモカに限らず)「この人達だからこそ」と思える特別な描写を、さりげなく入れて欲しいのです。

 それに、画像①に着目した理由は他にもあります。画像①のような描写は、読者がキャラの台詞と行動をほぼ同時に読み取れるような媒体――すなわち漫画かアニメでこそ効果を発揮する仕掛けだからです。小説ではどうしても行動と台詞が分かれてしまうので、台詞を読んだ瞬間には、そのキャラが今どんな行動をしているのかを読者は想像してしまいます。そこに台詞とは何ら関係の無い行動を地の文で描写されても、まずは困惑の方が先に立つでしょう。ノベルゲーでもCGとスクリプトにリソースを割けば可能でしょうが、少なくとも立ち絵とテキストのみでは不可能な演出です。でも「ハイスクール・フリート」はアニメなので、画像①のような描写を漫画よりも真に迫る形で取り入れることも可能なのです。ただ、その分だけ情報量は増えてしまうので、劇伴を控え目にして声優の演技だけに任せる、演出の主役となるキャラ以外は画面に映さない、などの「情報を絞る」工夫は必要不可欠でしょう。そこは監督や絵コンテ、演出の仕事ですね。

 まあ細かい演出はさておき、今後のシナリオに十分な振り幅を確保したければ、まず早い内に人間関係を示して土台を盤石にしなければならない、と私は考えています。「ハイスクール・フリート」は食料奪取ネタとは比べるべくもない、暗澹たるシリアス展開へと舵を切る可能性も否定できませんからね。それでも人間関係を主軸に据えておけば物語が脱線し過ぎることは無いんじゃないかな、と個人的には思うのでした。

 それでは、またいずれ。

*1:原案

*2:脚本

*3:3DCG

*4:本作品の欺瞞作戦については他所で散々語り尽くされていますから、この記事では触れません。悪しからず。

*5:詳しくはガルパン公式同人誌の「ガールズ&パンツァー ミリタリーワークス集」をご確認下さい。

*6:主にミリオタがときめくようなアレ

*7:便宜上、教官が撃ってくる前を日常シーン、後を戦艦道シーンと呼びます。

*8:世間でどう言われているかは知りませんが、個人的にはそう思っています

*9:後々の活躍を見れば「ほざく」という表現の方が正しいような……

*10:そもそも実際の女子高生は私が思うよりもタフで適応能力の高い娘ばかりなのかもしれません。

*11:吉田徹 氏の絵コンテ回。7話は演出も担当されています。

*12:あと3~4話の転換点でキャラを雑に殺す展開も結構です。間に合ってます。

*13:それどころか故障シーンすらない

*14:なので、ここでは深入りしません

*15:2話・Aパート

*16:映画第四部のパンフレットで、サトジュン監督ご本人が沢渡楓のキャラ造形について触れています

*17:ミケモカの抱擁はパーソナルスペース云々というより百合厨へのファンサービス感が露骨過ぎて……うーん。

*18:本音が出やすいとされる足癖が一番ほしい。偉大なるけいおん!シリーズを見習いましょう。

*19:パーカーっ娘のパンチとか。階段を滑り降りた直後にたたらを踏む仕草もよい。

*20:公式サイトに各キャラのプロフィールが掲載されたけど、いやそういうことではなくてね?(それはそれで嬉しいけど)

*21:それとなく主人公の人生観が表出したり、大まかなストーリーラインを暗示するメタファーが仕込まれていたり

*22:というか、公的機関が絡む企画でまどマギ路線をやるとしたら、暗愚を通り越して蛮勇ですよね

*23:この本の感想は気が向いたらtwitterか何かで

*24:……正直、あれはあれで嬉しいんですけどね。

がっこうぐらし!アニメ版の由紀が池沼超能力者にされたメリットとは

※この記事は原作既読者向けの記事です。読者が原作の描写を知っていることを前提として書いています。また、原作4巻、アニメ8話までのネタバレが含まれています。

 

 アニメ版の由紀がいかに池沼、或いは超能力者として描かれていて、そのデメリットに見合うだけのメリットがどこにあるのか、私は1人の原作ファンとして考えた。7話のとある描写を起点に、6話以前に遡ってキャラの言動を見極め、8話から今後の展望を読み取る。大まかな流れはこんな感じだ。

 前置きはここまで、早速本題に入ろう。

 7話では1巻第6話「おてがみ」が重点的に描かれた。このエピソードはみーくんが救出された後に回されるだろうと、原作既読者の大半が予想していただろう。OPで映る手紙にみーくんが描かれているからだ。

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 まず「おてがみ」にみーくんを出した狙いを推察する。

 このエピソードは1巻ラストのお話であり、最後に2巻への引きとして謎の少女が描かれて終わる。その少女がみーくんだ。私も1巻を読んだとき「このキャラは誰だ?」と気になって、気付けば2巻以降をポチっていた。しかしアニメでは1話から既に、みーくんが学園生活部の一員として描かれている。故に、前述のような“引き”が期待できない。必然的に「おてがみ」は最後の“引き”をカットして映像化されることになる。

 すると、この話は1話完結、非常にキリの良いエピソードに変貌する。7話の最終回然とした終わり方を見れば一目瞭然だろう。このあとにシームレスで別の話を繋げるためには、また新たな“引き”を用意しなくてはならない。故に、原作の「おてがみ」にアニメオリジナルの脚色を加えて、1話丸々を1つのエピソードで完結させる作劇が余儀なくされた*1。しかしそれでは尺が足りない。そこでみーくんと学園生活部の絡みを追加したり、太郎丸と由紀の認識論について言及することで、尺を調整したのだろう。

 勿論、これは全て私の憶測でしかない。だが、原作者がシリーズ構成を担当しているだけあって、精緻な計算の上で原作が切り貼りされているのは間違いない。

 ……そう思っていたのだが、どうしても計算が狂っているとしか思えない箇所を見つけた。百聞は一見に如かず。まずは該当シーンのやり取りを抜粋する。(尚、twitterでは全体的な改変の方向について何度か呟いている。気になる方はそちらを参照されたい。)

 

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「りーさんおかわりー!」

「ごめんね由紀ちゃん。お代わりは無いのよ。」

「遠足で持ってきたの、種類重視だったからなぁ。」

 

 

 一方、原作では――

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 見ての通り、原作ではうどんを切らした理由を「購買では補充できなかったから」と説明している。ここで、原作の一番下のコマに注目してほしい。由紀がぽかんと口を開けたまま静止し、それをくるみが気遣わしげに一瞥している。このあと由紀はめぐねぇに遠出の許可を貰いに行き、それが2巻第8話の「えんそく」に繋がる。その結果、たまたま遠足先でみーくんと出会い、彼女を救出することになる。

 一方アニメでは、うどんを食すシーンを遠足の後に回したため、うどんを切らした理由が「種類重視で選んだから」に改変されている。奥歯に物が挟まったような、度し難い台詞だ。みーくんを発見する前に補充したハズなのに、4人分のうどんが用意されているのは何故だ、種類重視とはいえたった1回分しか補充しなかったのか、等々の些少な突っ込み所はさておき、ここで1つ致命的な問題が浮上する。

 それは、アニメ版では“うどんを補充する”という理由付けがなされないまま、由紀が「なんとなく」遠足に行こうと言い出したことである。この時点で由紀の遠足提案は単なる我侭でしかない。後にくるみはこれを「由紀は何故か本当にそれが必要になったとき、こういうこと(遠足や運動会など)を言い出すんだ」(第6話)と説明した。しかしアニメ版では、遠出の必要性をくるみやりーさんが唱える場面はない。ならばその必要性は、由紀本人の内なる声が示した道に他ならない。つまりアニメ版由紀は、まだ顔も知らないみーくんを救出するために遠足を提案したのである。まさか第6感か超能力で無意識にみーくんの危険を察知した、とでも言いたいのだろうか。

 原作では上述の通り、遠足がみーくんの救出に繋がったのは結果論である。由紀は「購買では買えないもの*2を調達したい」というりーさんやくるみの要望へ応えるために遠足を提案した。つまり原作の由紀は彼女なりに学園生活部に貢献しようと「頑張って」いる。妄想の世界に逃げながらも、彼女は自分にやれることを精一杯やっているのだ。これは、のちの喧嘩イベントでみーくんが導いた結論*3に、説得力を持たせるための具体例だ。

 しかしアニメ版の由紀は第6感で誰かの危険を察知する超能力者にされてしまった。言い切ってしまうが、この由紀は断じて「頑張って」などいない。彼女はくるみやりーさんに養われながら、ただ自由気侭に振舞う。その過程で第6感が発動して、たまたま部に必要なものを提案すると、くるみやりーさんはその恩恵に預かる。これを共依存と言わずして何と言う。そのくせ、由紀の第6感は何故か圭ちゃんを助けなかった。くるみの言う「必要なもの」に圭ちゃんは入っていなかったのだろうか。考えれば考えるほど杜撰な設定だが、みーくんはあっさりと受け入れてしまった。そのせいで、アニメ版のみーくんは由紀について真面目に考えていないとすら感じられる。

 現状、アニメ版の由紀は少し勘のいい池沼幼女にしか見えまい。紛うことなき足手まといだ。原作のみーくんがこの惨状を目の当たりにしたら、一弾指の迷いもなく退部を決めるに違いない。由紀のCVを担当した水瀬いのりさんは彼女を主人公*4だと言った。主人公の扱いがこれでいいのだろうか。

 畢竟、由紀が「能動的」に学園生活部へ貢献しようと頑張っていることが描かれないと、彼女の魅力は視聴者に伝わらない。そのためには、由紀本人が自分の役割を口にする場面を設けなくてはならない。そればかりは第三者が口を出せる問題ではないからだ。原作でみーくんが由紀を連れてバリケードを越えるシーンを思い出して欲しい。介入しようとしたりーさんを、くるみは制止した。第三者が介入したところで意味はないと、彼女は知っていたからだろう。

 そんな気配りのできるくるみがアニメでは、口頭でベラベラ由紀の役割を説明するという暴挙に出た。原作とは丸きり真逆の対応である。以前からくるみについては、原作と別人のような言動が散見されると思っていたが、さすがにこの描写には心底驚いた。そこまで改変して由紀を池沼超能力者に変えたメリットはどこにあるのか、私には皆目検討も付かなかった。

 そして先日、がっこうぐらし!8話が放送された。なんとその8話で早速、由紀の超能力が発揮された。該当シーンを抜粋する。

「そこはもうさっき探したハズだけれど……」

「そう思うでしょ?」

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「飾り板だったのね……」

  アニメ版由紀お得意の第6感がめぐねぇの飾り板を看破している。言うまでもなく、このシーンはアニメオリジナルだ。原作ではくるみとりーさんが、みーくんに1人でめぐねぇの戸棚を調査させる。

 アニメではみーくんが実にあっさりとくるみの説明を受け入れたため、原作より早く学園生活部との心の距離が縮まる。特にアニメ版のりーさんとみーくんはかなり親密な関係を築いている。6話で2人が握手をするシーンは、原作で由紀とみーくんが握手をするシーンのセルフオマージュだろう。この演出から私は、原作における由紀・みーくんの距離感と、アニメにおけるりーさん・みーくんの距離感はほぼ同じであると考えている。これだけ親密な相手にめぐねぇの戸棚の調査を丸投げしたら、明らかに不自然だ。故に制作陣は「りーさんとみーくんの2人で調査する」という展開を選択したのではないかと考える。

 2人で調査するには、その切欠も2人で共有しなければならない。それが第7話で出てきた「職二金」の鍵だ。鍵を隠していた以上、アニメ版のめぐねぇは相当強い意思でマニュアルを隠匿していた、ということになる。だから鍵の他に何かしらのギミックを用意していたとしても不思議ではないだろう。また、作劇の一貫性という観点で見ると、アニメ版がっこうぐらし!にはホラー要素の定番ネタ*5が多々仕込まれている。今回の飾り板もホラーゲームにありがちなギミックだ。

 この飾り板という選択は絶妙なラインだと思う。探す側にとっては見つけにくい仕掛けでありながら、めぐねぇ自身が解除するのは容易い、お手軽ギミック。マニュアルを見つけたあとのめぐねぇは精神的に追い詰められている筈なので、本当は仕掛けを考える余裕があるとは思えない*6のだが、飾り板ならギリギリ許容範囲だろう。(例えばリトバスEXに出てきた隠し板のような「推理を必要とする仕掛け」はアウト。めぐねぇ意外と余裕だったんだね(笑)と言われても文句は言えまい。)

 そして、その程度の簡単な仕掛けならば、由紀の第6感設定を活用することで、テンポを損なうことなく、仕掛けを解除して話を前に進めることが出来る。同時に、解除する前にみーくんとりーさんが手詰まりに陥る展開を挟むことで、めぐねぇの仕掛けがきちんと機能している、つまり彼女はそれだけマニュアルを隠したかった、という無言の訴えも恙無く表現されていると感じた。

 仕掛け板の件だけでなく、遠足の提案も由紀の第6感設定が活用された例の1つだ。4話が放送されていた頃、アニメ版初見の方が「遠足へ行く意義が分からない」と言っているのを見た。至極もっともな意見である。しかし後に「由紀の第6感がみーくんの危機を救った」と説明することで、意義ではなく由紀のセンスが全てだ、という理屈が正当化される。力技ではあるが、“アニメがっこうぐらし!”という枠の中では、1本の筋を通すことに成功していると言える。

 つまり由紀の第6感設定には、一見不自然に見える作劇を「由紀が察したから」の一言で強引に押し進めることが出来る、という野蛮かつ強力なメリットがあるのだ。雑といえば雑だが、これにより作劇の選択肢が大幅に広がるのは間違いない。

 しかし、仮にこの私見が正しかったとしても、現時点*7では、このメリットが十分に――上述のデメリットを埋め合わせるほどに、活用されているとは思えない。

 全ては後の祭りだ。由紀を怠惰な超能力者にしてしまった事実は覆せない。ならばいっそ、今後の話数ではできるかぎり、由紀の超能力設定をモリモリ作劇に組み込んでいくべきだ。必然性を訴えれば、それだけメリットが加算されていく。これだけのデメリット(負債)を払いきれるとは思えないが、見事にそれを覆して欲しい。とはいえ無論、やりすぎて話がこれ以上破綻しては本末転倒だ。その辺は監督やシリーズ構成のバランス感覚と計画性が問われると思うが、さてどうだろうか。

 私は原作改変=悪と言っているわけではない。改変した結果、別物としてまともな筋の通った作品が出来上がるなら、それはそれでいい。その点、がっこうぐらし!の改変は中途半端でなく、原作の構造を抜本的に取り壊して全く新たな作品「アニメがっこうぐらし!」を作ろうとしている姿勢が見られる。だからもしかすると、残りの4話で由紀の魅力をきちんと描いてくれるかもしれない。

(いや実際、そうしないと話も進まないしな……。バットとケミカルライトで武装してシャッターの外に飛び出すシーンとかどうするの。でも、9話の水着回って嫌な予感しかしないんだよなー。くるみもりーさんも、めぐねぇのことが心配で暢気に水着で遊べるような精神状態ではない筈だが……。)

 と、とりあえず私は、1人の原作ファンとして最後まで見守るつもりだ。

*1:だからってOPのアレンジまで流すことはないと思うが。正直、あれはギャグにしか見えなかった。

*2:勿論、うどんだけではない

*3:「あの人も頑張ってました」

*4:ちなみに私は由紀のことを主人公というよりトリックスターだと思っている。

*5:或いはBGM

*6:原作では戸棚に戻して誤魔化すのが精一杯だった。

*7:8話まで